これごさんなれ、聞こゆる黄金商人吉次と言ふ者なり。奥州の案内者やらん、彼に問はばやと思し召して「陸奥と言ふは、如何程の広き国ぞ」と問ひ給へば、「大過の国にて候ふ。常陸の国と陸奥との堺、菊田の関と申して、出羽と奥州との堺をば岩手の関と申す。その中五十四郡」と申しければ、「その中に源平の乱来たらん用に立つべき者如何程あるべき」と問ひ給へば、国の案内は知りたり。吉次暗からずぞ申しける。「昔両国の大将軍をば安の太夫とぞ申しける。彼らが一人の子あり。安倍の権の守とぞ申しける。子ども数多あり。嫡子厨川の次郎貞任、二男鳥海の三郎宗任、家任、盛任、重任とて六人の末の子に境の冠者良相とて、霧を残し霞を立て、敵起こる時は水の底海の中にて日を送りなどする曲者なり。これら兄弟丈の高さ唐人にも越えたり。貞任が丈は九尺五寸、宗任が丈は八尺五寸、いづれも八尺に劣るはなし。中にも境の冠者は一丈三寸候ひける。安倍の権の守の世までは宣旨院宣にも畏れて、毎年上洛して逆鱗を休め奉る。安倍の権の守死去の後は宣旨を背き、たまたま院宣なる時は、北陸道七箇国の片道を賜はりて上洛仕るべき由申され候ひければ、片道賜はり候ふべきとて下さるべかりしを、公卿僉議ありて、『これ天命を背くにこそ候へ。源平の大将を下し、追討せさせ給へ』と申されければ、源の頼義勅宣を承つて、十六万騎の軍兵を率して、安倍を追討の為に陸奥へ下し給ふ。
けれども遮那王はこの者に違いない、噂に聞く黄金商人吉次(金売吉次)と言う者だと思いました。奥州のことをよく知っていることだろう、吉次に聞こうと思い直して「陸奥国と言う所は、どれほど広い国か」と訊ねると、吉次は「大過([きわめて大きいこと])の国でございます。常陸国と陸奥国の境には、菊田の関(勿来の関。福島県いわき市勿来町付近にあった古代の関所)と申し、出羽国と陸奥国の境を岩手関(山形県最上郡最上町)と申します。その中には五十四の郡がございます」と答えました、遮那王が「その中に源平の乱が起こった時役に立つ者はどれほどいるか」と訊ねると、吉次は国の事をよく知っていました。吉次はすらすら答えました。「昔出羽陸奥の両国の大将軍は安太夫(安倍忠良。ただし安太夫と呼ばれたのは、その子安倍頼時らしい)と申す者でした(ちなみに原文では「岡大夫」=「わらびもち」。第六十代醍醐天皇が大夫=五位になしたと言えども、さすがに「わらびもち」に大将軍は務まりませぬ)。安倍忠良には一人の子がいました。安倍権守(安倍頼時)と申しました。頼時には子が多くいました。嫡子は厨川次郎貞任(安倍貞任)、二男は鳥海三郎宗任(安倍宗任)、家任、盛任(不明)、重任という六人の末子に境冠者良相と言う、霧を発生させ霞を立て、敵がやって来れば水の底海の中で日を送るなどしていた曲者([怪しい者])がいました。これら兄弟の背の高さは唐人([中国人])をも超えていました。貞任の背丈は九尺五寸(約2m85cm)、宗任の背丈は八尺五寸(約2m55cm)、いずれも八尺(約2m40cm)に満たない者はいませんでした。中でも境冠者は一丈三寸(約3m9cm)ありました(困ったものです)。安倍権守(安倍頼時)の時代までは宣旨([天皇の命令])院宣([上皇の命令])にも恐れをなして、毎年上洛([京に上ること])して逆鱗([天子の怒り])を鎮めていましたが、安倍権守(安倍頼時)が死去した後は宣旨にも背き、院宣が下されれば、北陸道箇国の分の追捕([兵粮米の現地調達])を賜れば上洛すると答えましたが、片道を与えるのは叶わないことでしたので、公卿僉議し、『これは天命に背く行為である。源平の大将を陸奥に下し、安倍を追討せよ』と申して、源頼義(源義朝の父)が勅宣([天皇の命令])を承って、十六万騎の軍兵を率いて、安倍追討のために陸奥に下りました。
(続く)