されども時の大将軍にて候ひし間、責め一人に帰すとかや申し候ふなれば、重衡一人が罪業にこそなり候ひぬらめと思え候ふ。今またかれこれ恥を晒すも、しかしながらその報いとのみこそ思ひ知られて候へ。今は髪を剃り、乞食頭陀の行をもして、ひとへに仏道修行したく候へども、かかる身に罷りなつて候へば、心に心をも任せ候はず。いかなる行を修しても、一業助かるべしとも思えぬことこそ口惜しう候へ。つらつら一生の所業を案ずるに、罪業は須弥よりも高く、善根は微塵ばかりも蓄へなし。かくて命空しう終はり候ひなば、火血刀の苦果、敢へて疑ひなし。願はくは、上人慈悲を起こし、憐れみを垂れ給ひて、かかる悪人の助かりぬべき方法候はば、示し給へ」と申されければ、上人涙に咽びうつ伏して、しばしはとかうのことものたまはず。
けれども大将軍でしたので、責めは一人に与えられると申しますから、わたし重衡(平重衡。平清盛の五男)一人の罪業([罪となる悪い行い])になるものと覚悟しております。今またあちこちで恥を晒すのも、その報いと思い知らされているのです。今は髪を剃り、乞食となり頭陀の行([僧が修行のために托鉢して歩くこと])もして、ひたすら仏道の修行をしたいと思っておりますが、捕らわれの身となって、思うままに身を任せません。またどのような修行をしたところで、一業([一業所感]=[同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ])なれば助かるとも思えないことが残念です。あれこれと一生の所業を考えますと、我が罪業は須弥山([世界の中心にそびえるという高山])よりも高く、善根([よい報いを招くもとになる行為])は微塵もありませんでした。このまま空しく命を終えれば、火血刀([火途・血途・刀途の三途。地獄・畜生・餓鬼の三悪道])の苦果([過去の悪業の報いとして受ける苦しみ])を受けることは、まったく疑いのないことです。願わくは、上人(法然)が慈悲の心を起こし、憐みの心をもって、わたしのような悪人が助かる方法がございますれば、お示しいただきたい」と申すと、上人は涙にむせびうつ伏して、しばらく何も言えませんでした。
(続く)