Santa Lab's Blog


「平家物語」海道下(その1)

さるほどに本三位中将重衡しげひらきやうをば、鎌倉のさき兵衛ひやうゑすけ頼朝、しきりにまうされければ、さらば下さるべしとて、土肥とひ次郎じらう実平さねひらが手より、九郎御曹司の宿所へ渡し奉る。同じき三ぐわつとを日の日、梶原かぢはら平三へいざう景時かげときに具せられて、関東くわんとうへこそ下られけれ。西国にていかにもなるべかりし人の、生きながら捕らはれて、都へ上り給ふだに口しきに、今更また関のひんがしへ赴かれん心の内、推し量られてあはれなり。四の宮河原がはらになりぬれば、ここは昔延喜えんぎ第四だいし皇子わうじ蝉丸せみまるの、関の嵐に心を澄まし、琵琶びはを弾き給ひしに、博雅はくが三位さんみと言つし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、三年みとせあひだ歩みを運び、立ち聞きて、かの三曲を伝へけん、藁屋の床のいにしへも、思ひ遣られてあはれなり。




やがて本三位中将重衡卿(平重衡。平清盛の五男)を、鎌倉の前兵衛佐頼朝(源頼朝)が、しきりに下すよう申したので、ならば鎌倉へ下すべきと、土肥次郎実平(土肥実平)の手によって、九郎御曹司(源義経)の宿所に移されました。同じ三月十日、梶原平三景時(梶原景時)に連れられて、関東に下りました。西国でいかにもなるべき者が、生きながら捕らわれて、都に上るのさえ悲しいことでしたが、今また関(逢坂の関。滋賀県大津市)の東に赴く心の内が、推し量られて哀れでした。四宮河原(京都市山科区四ノ宮川原町)にもなると、延喜の帝(第六十代醍醐天皇)の第四皇子蝉丸(不詳)が、逢坂の関(滋賀県大津市)の嵐に心を澄まし、琵琶を弾いていましたが、博雅三位(源博雅ひろまさ)と呼ばれた者が、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る日も降らぬ日も、三年間通い、立ち聞いて、かの三曲(流泉りうせん啄木たくぼく。他一楊真操やうしんさうか)を伝えた、藁谷([粗末な家])の床の昔が、思い出されて哀れでした。


続く


by santalab | 2013-08-09 07:19 | 平家物語

<< 「落窪物語」巻四(その23)      「平家物語」戒文(その5) >>
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧