逢坂山打ち越えて、勢田の唐橋、駒も轟と踏み鳴らし、雲雀上がれる野地の里、志賀の浦波春かけて、霞に曇る鏡山、比良の高嶺を北にして、伊吹の岳も近付きぬ。心を留むとしなけれども、荒れて中々やさしきは、不破の関屋の板庇、いかに鳴海の潮干潟、涙に袖は萎れつつ、かの在原の某の、唐衣着つつ馴れにしと眺めけん、三河の国の八橋にもなりぬれば、蜘蛛手にものをと哀れなり。浜名の橋を渡り給へば、松の梢に風冴えて、入り江に騒ぐ波の音、さらでも旅は物憂きに、心を尽くす夕間暮れ、池田の宿にも着き給ひぬ。かの宿の長者熊野が娘、侍従が許に、その夜は三位宿せられけり。侍従、三位中将殿を見奉て、「日来は伝手にだに思し召しより給はぬ人の、今日はかかるところへ入らせ給ふことの不思議さよ」とて、一首の歌を奉る。
旅の空 埴生の小屋の いぶせさに ふるさといかに 恋しかるらむ
中将の返事に、
ふるさとも 恋しくもなし 旅の空 都もつひの 住みかならねば
逢坂山([京都府京都市と滋賀県大津市との境にある山])を越えて、勢田の唐橋(滋賀県大津市)を、馬は大きく鳴り響かせながら通り過ぎ、雲雀が空高く上る野地(滋賀県草津市)の里、志賀の浦(滋賀県琵琶湖南西岸)はおだやかな春の装いで、霞に曇る鏡山([滋賀県野洲市と蒲生郡竜王町との境にある山])、比良の高嶺([琵琶湖西岸の山地])を北にして、伊吹岳([滋賀県米原市にある伊吹山])も近くなりました。重衡(平重衡。清盛の五男)はとりわけ気にとめることはありませんでした、心穏やかでない重衡にとってやさしい景色でさえも、不破の関屋([不破の関]=[岐阜県不破郡関ヶ原町にあった関所])の板庇([板で葺いた庇])のように破れず、涙は鳴海の潮干潟(愛知県名古屋市緑区)のように乾くことがなく、袖は涙にしおれて、かの在原某(在原業平)が、唐衣着つつ馴れにし(『からころも きつつ馴れにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ』=「唐衣が着馴れするように、馴れ親しんだ妻を都に置いて来たことを、この花を見て思い出しました。都から遠く離れて旅をしているのだと」。この花は『か き つ は た』で「かきつばた」です)と詠んで眺めた、三河国の八橋(愛知県知立市)にもなれば、前途が蜘蛛手の橋([池の上などに四方へ架け渡した橋])のように思われて悲しくなりました。浜名橋([静岡県浜名湖から遠州灘に注ぐ浜名川にかかっていた橋])を渡れば、松の梢を吹き抜ける風の音もさえて、入り江には潮騒ぐ波の音、そうでなくても旅は物悲しいものですが、悲しさが心を埋め尽くす夕暮れ時になって、重衡は池田宿(静岡県磐田市)に着きました。池田宿の長者([女主人])熊野の娘で、侍従の許に、その夜三位(重衡)は泊りました。侍従は、三位中将殿(重衡)を見て、「日頃は伝手にも思いもしなかったお人が、今日はこのようなところに入られるとは不思議なことでございます」と言って、一首の歌を奉りました。
旅の途中、埴生の小屋([土の上にむしろを敷いて寝るような粗末な小屋])に入られて、あまりのむさ苦しさに、故郷(京)を、恋しく思い出されているのではございませんか。
中将(重衡)の返事には、
今となっては故郷(京)を恋しく思うことはない。旅の空の宿も、都も、終の住み処([最後に安住する所])ではないのだから。
(続く)