この心を橘相公の詩に作れるを、三位中将今思ひ出で、口ずさび給ふにや、いとやさしうぞ聞こえし。さるほどに夜も明けければ、狩野の介暇申して罷り出づ。千手の前も帰りけり。その朝兵衛の佐殿は、持仏堂に法華経読うでおはしけるところへ、千手の前帰り参りたり。兵衛の佐殿うち笑み給ひて、「さても夕べ仲人をば、おもしろうもしつるものかな」とのたまへば、斎院の次官親義、御前に物書いて候ひけるが、「何事にて候ふやらん」と申しければ、佐殿のたまひけるは、「平家の人々は、この二三か箇年は、戦合戦の営みのほかは、また他事あるまじきとこそ思ひしに、さても三位中将の琵琶のばち音、朗詠の口ずさび、夜もすがら立ち聞きつるに、優にやさしき人にておはしけり」とのたまへば、親義申しけるは、「誰も夕べ承りたく候ひしかども、折節相労はることの候ひて、承らず候ふ。この後は常に立ち聞き候ふべし。平家は代々歌人才人たちにて渡らせ給ひ候ふ。先年あの人々を、花に例へて候ひしには、この三位中将殿をば、牡丹の花に例へて候ひしか」とぞ申しける。三位中将の琵琶のばち音、朗詠の口ずさみ、兵衛の佐殿、後までもありがたきことにぞのたまひける。その後中将南都へ渡されて、斬られ給ひぬと聞こえしかば、千手の前は、中々物思ひの種とやなりにけん、やがて様を変へ、濃き墨染めにやつれ果てて、信濃の国善光寺に行ひ済まして、かの後世菩提を、弔ひけるぞ哀れなる。
この気持ちを橘相公(橘広相)が詩にしたためたことを、三位中将(平重衡。清盛の五男)は今思い出して、口ずさむ声は、とても趣深く聞こえました。やがて夜も明けて、狩野介(狩野宗茂)は出て行きました。千手前も帰りました。その日の朝兵衛佐殿(源頼朝)は、持仏堂([持仏や先祖の位牌を安置しておく堂])で法華経を唱えていましたが、千手前が帰って来ました。頼朝は微笑んで、「それにしても夕べ仲人(源平の仲立ちとなる人の意か)を、楽しませてくれたそうだな」と言うと、斎院次官の親義は、御前で物書きをしていましたが、「何かありましたか」と申せば、頼朝が言うには、「平家の者たちは、この二三年は、戦合戦のほかは、何もしなかったと思っていたのに、それにしても重衡の琵琶のばち音、朗詠([歌])の声、夜通し立ち聞きしておったが、とても優雅な人だな」と言うと、親義が申すには、「わたしも話を聞いておりましたが、ちょうど体の調子がすぐれなくて、伺うことができませんでした。後は立ち聞きしてみましょう。平家は代々歌人才人([学問・芸能に優れた人])の家系です。先年平家の者たちを、花に例えていましたが、重衡殿は、牡丹の花に例えられました」と申しました。重衡の琵琶のばち音、朗詠の声、頼朝は、後までもありがたいことだと言いました。その後重衡は南都([奈良])へ移されて、斬られたと聞こえたので、千手前は、思い悩む種となったのか、やがて様を変え、濃い墨染めの僧衣姿となって、信濃国の善光寺(今の長野県長野市にある寺院)で出家して、重衡の菩提([死後の冥福])を、弔うことこそあわれなことでした。
(続く)