Santa Lab's Blog


「平家物語」横笛(その1)

さるほどに小松の三位中将維盛これもりきやうは、身柄は屋島にありながら、心は都へ通はれけり。ふるさとに留め置き給ひし北の方をさなき人々の面影のみ、身にひしと立ち添ひて、忘るるひまもなかりければ、あるに甲斐かひなき我が身かなとて、寿永じゆえい三年三月さんぐわつ十五じふご日のあかつき、忍びつつ屋島の立ちをば紛れ出で、与三兵衛重景よさうびやうゑしげかげ石童丸いしどうまると言ふわらは、船に心得たればとて、武里たけさとと言ふ舎人とねり、これ三人を召し具して、阿波あはの国結城ゆふきの浦より船に乗り、鳴戸の沖を漕ぎ過ぎて、紀のへ赴き給ひけり。和歌、吹上、衣通姫そとほりひめの神とあらはれ給へる玉津島の明神みやうじん日前にちぜん国懸こくけん御前おまへを過ぎて、紀の港にこそ着き給へ。それより山づたひに都へ上り、こひしき者どもをも、今一度見もし、見えばやとは思はれけれども、叔父をぢ本三位中将殿の生捕りにせられて、きやう鎌倉はぢをさらさせ給ふだにも口しきに、この身さへ捕らはれて、父のかばねに血をあやさんことも心憂しとて、千度ちたび心は進めども、心に心をからかひて、高野かうや御山おやままゐり給ふ。高野に年頃知り給へるひじりあり。三条さんでうの斎藤左衛門ざゑもん茂頼もちよりが子に、斎藤滝口時頼ときよりとて、もとは小松殿のさぶらひたりしが、十三じふさんの年本所ほんじよへ参りたり。建礼門院けんれいもんゐん雑仕ざふし横笛と言ふをんなあり。




やがて小松三位中将維盛卿(平維盛。清盛の嫡孫、重盛しげもりの嫡男)は、身は屋島(香川県高松市)にありながら、心は都に馳せていました。都に残した北の方(妻)と幼い子たちの面影だけを、身にしっかりと離さず、忘れることもできなかったので、あっても何の価値もない我が身であることと思って、寿永三年(1184)三月十五日の夜明け前に、忍んで屋島を紛れ出て、与三兵衛重景、石童丸と言う童、船に馴れていたので、武里の舎人([召使い])の、三人を供に付けて、阿波国結城の浦(今の徳島県海部郡由岐町あたりらしい)から船に乗り、鳴戸の沖(今の徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にある鳴戸海峡。渦潮で有名です)を過ぎて、紀路(紀伊国、今の和歌山県と三重県南部)へと船を進めました。和歌の浦(今の和歌山県和歌山市南部)、吹上の浜(今の和歌山県和歌山市)、衣通姫(紀伊国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌山県和歌山市にある玉津島神社に合祀されているらしい)で有名な玉津島の明神([神])、日前神宮(和歌山県和歌山市にある神社)国懸神宮(日前神宮の境内にあるらしい)の前を過ぎて、紀の港(やはり和歌山県和歌山市にあったらしい)に着きました。そこから山づたいに都に上り、恋しい者たち(妻子)に、もう一度見て、会いたいと思いましたが、叔父の本三位中将殿(平重衡しげひら。清盛の五男)が生捕りにされて、京鎌倉に恥をさらしたことも悔しいのに、我が身も同じように捕らわれて、父(平重盛しげもり。すでに病死)の屍に血を流すのも心苦しいので、何度も心は都に進みましたが、心と心を葛藤させて、高野山へ行くことにしました。高野山には数年来知る僧がいました。三条の斎藤左衛門茂頼の子で、斎藤滝口時頼(斎藤時頼。[滝口]=[蔵人所に属し、宮中の警衛に当たった武士])といって、もとは小松殿(維盛の父、平重盛)の侍でしたが、十三歳で本所([宮中])に配所になりました。建礼門院の雑仕([雑役])で横笛という女がいました。


続く


by santalab | 2013-08-28 20:21 | 平家物語

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