重景候ふべきなれども、その時はいまだ二歳になり候へば、少しも思え候はず。母には七歳にて遅れ候ひぬ。情けを掛くべき親しき者、一人も候はざりしに、故大臣殿、御哀れみ候ひて、あれは我が命に代はりたりし者の子なればとて、朝夕御前にて、育てられ参らせて、生年九つと申しし時、君の御元服候ひしよ、かたじけなくも頭を取り上げられ参らせて、『盛の字は家の字なれば、五代に付く。重の字をば松王に』と仰せられて、重景とは召され参らせけるなり。その上童名を松王と申しけることも、生まれて忌五十日と申すに、父が抱いて参りたりしかば、『この家を小松と言へば、祝うて付くるなり』と仰せられて、松王とは付けられ参らせて候ひけるなり。父がようてしにけるも、我が身の冥加と思え候ふ。随分同齢どもにも、芳心せられてこそ罷り過ぎ候ひしか。されば御臨終の御時も、この世の中のことをば、思し召し捨てて、一事も仰せられざりしに、重景を御前へ召して、『あな無惨、汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過ごしつれ。今度の除目に靫負の尉になして、父景康を呼びしやうに、召さばやとこそ思し召しつるに、むなしうなるこそ悲しけれ。
重景もけして劣るとは思いませんが、その時はまだ二歳になったばかりのことでしたので、少しも覚えておりません。母は七歳の時に先立たれてしまいました。わたしに情けをかけてくれる者は一人もいませんでしたが、故大臣殿(小松大臣=平重盛。維盛の父)は、とても憐れんで、父(景康)はわが命に代わって亡くなったのだからその子ならばと言って、朝から晩まで御前で、育ててくれました、わたしが九歳の時、維盛殿が元服された時、ありがたいことにわたしも元服させていただき、『盛の字は我が家の字であるから、五代(維盛の幼名。維盛は清盛の祖父である正盛から数えて五代目)に付ける。重の字を松王(重景の幼名)に』とおっしゃられて、重景と付けられたのです。この上わたしの幼名を松王と申すのも、生まれて忌五十日([五十日の祝]=[生まれて五十日目に祝いを行った])に、父(景康)が抱いて重盛殿を訪ねましたが、『この家を小松と言うから、祝いとして付けてやろう』とおっしゃって、松王と付けられたのです。父が重盛殿のお役に立って死んだのも、我が身の冥加([思いがけない幸せ])だと思っております。随分同じ歳の者たちと比べても、親切すぎるほど大切にされたと思っています。重盛殿が御臨終の時も、この世の中のことは、思い捨てられて、何一つおっしゃられませんでしたが、わたしを御前に呼んで、『ああ残念なことだ、お前はわたしのことを父(景康)の形見だと思い、わたしはお前を景康の形見と思ってきたのだ。今度の除目([大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式])ではお前を靫負([衛門府])の尉にして、父である景康と同じように、呼び寄せようと思っておったが、叶いそうもないと思うと悲しくて仕方ない。
(続く)