叔父宗盛の卿は、大納言の右大将にて、階下に着座せられき。そのほか三位中将知盛、頭の中将重衡以下、一門の公卿殿上人、今日を晴れとときめき、垣代に立ち給ひし中より、この三位中将殿、桜の花をかざいて、青海波を舞うて出でられたりしかば、露にこびたる花の御姿、風に翻る舞ひの袖、地を照らし天も輝くばかりなり。女院より関白殿をお使ひにて、御衣を掛けられしかば、父の大臣座を立ち、これを賜はつて、右の方にかけ、院を拝し奉り給ふ。面目類少なうぞ見えし。傍の殿上人も、いかばかり羨ましうや思はれけん。内裏の女房たちの中には、深山木の中の桜梅とこそ思ゆれなんど、言はれ給ひし人ぞかし。ただ今大臣の大将を待ちかけ給へる人とこそ見奉りしに、今日はかくやつれ果て給へる御有様、かねては思ひよらざりしをや。移れば変はる世の習ひとは言ひながら、あはれなりける御事かな」とて、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、那智籠りの僧どもも、皆裏衣の袖をぞ絞りける。
叔父の宗盛卿(平宗盛。清盛の三男で重盛の弟)は、大納言の右大将で、下座に座られました。そのほか三位中将知盛(平知盛。清盛の四男)、頭中将重衡(平重衡。清盛の五男)以下、平家一門の公卿殿上人が、今日を晴れの日と喜び、垣代([青海波の舞楽のとき、庭上に垣根のように立ち並ぶ楽人たち])が立つ中より、この三位中将殿(平維盛。重盛の嫡男)が、桜の花を髪にかざして、青海波(よくわかりませんが舞いには違いありません)を舞いながら御前に出て来られました。露をまとった花をかざしたその姿、風に翻る舞いの袖は、地を照らし天も輝くばかりでした。女院(建春門院=平滋子。清盛の継室時子の妹)より関白殿(藤原基房)を使いにして、御衣を与えられたので、維盛の父重盛殿は座を立って、これを賜わり、右の肩にかけて、後白河院に礼をしました。これほどの名誉は少ないことでした。傍らの殿上人も、どれほど羨ましく思ったことでしょう。維盛殿は内裏の女房たちから、深山木([奥深い山に生えている木])の中の桜梅のような人と思われていると、言われていた人なのです(なので、維盛は「桜梅少将」とも呼ばれたそうです)。今にも大臣の大将になられる人と思っておりましたが、今はこんなにやつれ果てたお姿とは、思ってもみないことでした。移れば変わるのが世の習いとはいいますが、まことに嘆かわしいことです」と言って、袖を顔に押し当てて、しきりに泣いたので、那智籠り(那智の滝に打たれながら祈願する僧)の僧たちも、皆裏衣([一般の僧が着る単の法服])の袖を絞りました。
(続く)