三つの御山の参詣、事故なう遂げ給ひしかば、浜の宮と申し奉る王子の御前より、一葉の舟に棹差して、万里の蒼海に浮かび給ふ。はるかの沖に山成の島と言ふ所ありき。中将それに舟漕ぎ寄せさせ、岸に上がり、大きなる松の木を削りて、泣く泣く名籍をぞ書き付けられける。「祖父太上大臣平の朝臣清盛公、法名浄海、親父小松の内臣の左大将重盛公、法名浄蓮、三位中将維盛、法名浄円、歳二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す」と書き付けて、また舟に乗り、沖へぞ漕ぎ出で給ひける。思ひ切りぬる道なれども、今際の時にもなりぬれば、さすが心細う悲しからずと言ふことなし。頃は三月二十八日のことなれば、海路はるかに霞渡り、哀れを催す類ひかな。
三つの御山(熊野三所大神社。今の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にあります。熊野九十九王子の一つ、浜の宮王子が建っていた所で、浜の宮大神宮と呼ばれるそうな)の参詣を、滞りなく成し終えて、浜の宮王子の御前より、小さな舟を漕いで、蒼海に出ました。はるか沖に山成島(那智勝浦町勝浦東方1.4kmの海上に浮かぶ島らしい)という所が見えました。中将(平維盛)は山成島に舟を漕ぎ寄せさせて、岸に上がり、大きな松の木を削って、泣きながら名籍([官位・姓名・年齢などを書き記したもの])を書きつけました。「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、父小松内大臣の左大将重盛公、法名浄蓮、三位中将維盛、法名浄円、歳二十七歳、寿永三年(1184)三月二十八日、那智の沖で入水する」と書きつけて、また舟に乗り、沖に漕ぎ出しました。決心してのことでしたが、最期の時になれば、さすがに心細く悲しくなるのは言うまでもありませんでした。三月二十八日のことでしたので、海上には霞がかかり、同乗の者たちもあわれに思われるのでした。
(続く)