一の谷にて備中の守の殿討たれさせましまし候ひぬ。御身さへかやうに成らせましまし候へば、いかに各の頼りなう思し召され候ふらんと、ただこれのみこそ御心苦しう仰せられ候ひつれ」。唐皮、小烏のことまでも、細々と語り申したりければ、新三位の中将殿、「今は我が身とても永らふべしとも思えぬものを」とて、袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣かれける。故三位殿にいたく似参らさせ給ひたりしかば、これを見る侍どもも、さし集ひて袖をぞ濡らしける。大臣殿も二位殿も、「この人は池の大納言のやうに、頼朝に心を通はして、都へこそおはしたるらめなど、思ひ居たれば、さはおはせざりしか」とて、今さらまたもだえ焦がれ給ひけり。新月一日の日、改元あつて元暦と号す。その日除目行はれて、鎌倉の前の兵衛の佐頼朝、正下の四位し給ふ。もとは従下の五位にておはせしが、たちまちに五階を越え給ふこそめでたけれ。同じき三日の日、崇徳院を神と崇め奉らるべしとて、昔御合戦ありし大炊御門が末に、社を建てて宮移しあり。
一の谷で備中守殿(平師盛。重盛の五男で維盛の弟)が討たれてしまいました。我が身(維盛)までもが討たれてしまったら、どれほど平家の者たちは心細く思うことだろうと、ただこのことを心苦しく思うのだとおっしゃいました」。唐皮([虎の毛皮で威した平家重代の鎧らしい])、小烏([平家重代の名刀。今に残る。宮内庁蔵])のことまでも、細々と話すと、新三位中将殿(平資盛。重盛の次男)は、「今は我が身とて永らえるものとは思えない」と言って、袖を顔に押し当てて、とめどなく涙を流しました。資盛は故三位殿(維盛)にとても似ていたので、これを見た侍たちも、寄り集まって袖を濡らしました。大臣殿平宗盛。清盛の三男)も二位殿(平時子。清盛の継室)も、「維盛も池大納言(平頼盛。清盛の弟)のように、頼朝(源頼朝)に通じて、都に居るのではないかと、思っていましたが、そうではなかったのですね」と言って、今さらながら維盛に思いを寄せるのでした。新月一日に、改元があって元暦(1184)になりました。その日除目([大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式])が行われて、鎌倉の前兵衛佐頼朝(源頼朝)は、正下四位になりました。もとは従下五位でしたので、いきなり五階を越えるのはめずらしいことでした(従上五位、正下五位、正上五位、従下四位、従上四位、そして、正下四位の五階)。同じ三日に、崇徳院を神として崇めるべきとして、昔合戦(保元の乱)があった大炊御門の端に、社(粟田宮)を建てて宮移し([神体を移すこと])がありました(粟田宮が移されて、今の粟田神社、今の京都府京都市東山区粟田口鍛冶町にあります。になったそうです)。
(続く)