次に官人秦の兼峰・番の長下毛野の敦秀。次に御車・同じく車副四人・牛童一人。次に随兵二行なり。小笠原の次郎兵衛長清、小桜縅の鎧を着す。武田の五郎信光、黒糸縅の鎧を着す。伊豆の左衛門尉頼定、萌葱糸縅の鎧を着す。隠岐の左衛門の尉基行、緋縅の鎧を着す。大須賀の太郎道信、藤縅の鎧を着す。式部の大夫泰時は、小桜縅の鎧を着す。秋田の城介景盛、黒糸縅の鎧を着す。三浦の小太郎朝村、萌葱糸縅の鎧を着す。河越の次郎重時、緋縅の鎧を着す。荻野の次郎景員、藤縅の鎧を着す。
次には官人秦兼峰・番長([諸衛府の下級幹部職員])下毛野敦秀が続きました。次に源実朝の車・同じく車副([牛車の左右について供奉をする従者])四人牛童([牛飼童]=[牛車の牛を使い、牛車を進行させる者])が一人でした。次に随兵が二列で続きました。小笠原の次郎兵衛長清は、小桜縅([小桜革=藍地に、白で小さな桜の花形を数多く染め出したもの。で芯を包んだ緒で縅したもの])の鎧を着ていました。武田五郎信光(武田信光)は、黒糸縅の鎧を着ていました。伊豆守左衛門尉頼定(森頼定)は、萌葱糸縅([萌黄色=黄と青の中間色。の糸で鎧の札を綴ったもの])の鎧を着ていました。隠岐左衛門尉基行(持明院基行)は、緋縅([緋=紅。に染めた革や組糸を用いた威])の鎧を着ていました。大須賀太郎道信(大須賀道信)は、藤縅の鎧を着ていました。式部大夫泰時(北条泰時)は、小桜縅の鎧を着ていました。秋田城介景盛(安達景盛)は、黒糸縅の鎧を着ていました。三浦小太郎朝村(三浦時村)は、萌葱糸縅の鎧を着ていました。河越次郎重時(河越重時)は、緋縅の鎧を着ていました。荻野次郎景員(萩野景員)は、藤縅の鎧を着ていました。
(続く)