そもそも我が朝に白拍子の始まりけることは、昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳、和歌の前、かれら二人が舞ひ出だしたりけるなり。初めは水干に立烏帽子、白鞘巻を差いて舞ひければ男舞とぞ申しける。しかるを中頃より烏帽子刀を退けられて、水干ばかり用ひたり。さてこそ白拍子と名付けけれ。京中の白拍子ども、祗王が幸ひのめでたきやうを聞いて、羨む者もあり、嫉む者もあり。羨む者どもは、「あなめでたの祗王御前の幸ひや。同じ遊び女とならば、誰も皆あのやうでこそありたけれ。
そもそも我が朝に白拍子([[平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞])が始まったのは、昔鳥羽天皇の時代に、島の千歳と、和歌の前の、二人が舞い出したことでした。はじめは水干(簡素な白い着物。公家や上級武家の私服や少年の式服だったそうな)に立て烏帽子姿で、白鞘巻([銀の金具で飾った鞘巻]、[鞘巻]=[腰刀])を腰に差して舞ったので男舞と呼ばれました。中頃よりは烏帽子刀を身に付けず、水干だけになりました。なので白拍子と名付けられたのでした。京中の白拍子([白拍子を舞う遊女])たちは、祗王が清盛に寵愛されて一家が栄えるのを聞いて、羨む者のあり、妬む者もいました。羨む者たちは、「ああめでたい祗王御前の幸せよ。同じ遊び女([管弦・歌舞などで、酒席などの興を取り持つ遊女])ならば、誰でも皆祗王のようになりたいものです。
(続く)