人身は請け難く、仏教には遭ひ難し。この度泥梨に沈みなば、他生曠劫をば隔つとも、浮かび上がらんこと難かるべし。老少不定の境なれば、歳の若きを頼むべきにあらず。出づるいきの入るをも待つべからず。蜻蛉稲妻よりもなほはかなし。一旦の栄華に誇つて、後世を知らざらんことの悲しさに、今朝紛れ出でて、かくなつてこそ参りたれ」とて、被いたる衣をうち退けたるを見れば、尼になつてぞ出で来たる。「かやうに様を変へて参りたる上は、日頃の咎をば許し給へ。許さんとだにのたまはば、もろともに念仏して、一つ蓮の身とならん。それにもなほ心行かずは、これよりいづちへも迷ひ行き、いかならん苔の筵、松が根にも倒れ伏し、命のあらん限りは念仏して、往生の素懐を遂げんと思ふなり」とて、袖を顔に押し当てて、さめざめとかきくどきければ、祗王涙を抑へて、「我御前のそれほどまで思ひ給はんとは夢にも知らず、憂き世の中の性なれば、身の憂きとこそ思ひしに、ともすれば我御前のことのみ恨めしくて、今生も後生も、なまじひにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様を変へておはしつる上は、日頃の咎は、露塵ほども残らず、今は往生疑ひなし。
人の身を受けるのは難しく、仏教に出会う機会もわずかなことです。今泥梨([地獄])の底に沈めば、何度生まれ変わったところで、また人の身となることは難しいのです。老少不定([人の寿命に老若の定めのないこと])の身の上ならば、歳が若いからと頼りにすることはできません。生まれ出た命が入るのを待つ隙はありません。蜻蛉や稲妻よりもはかない命なのです。わずかの栄華に浮かれて、後の世を知らない悲しさに、今朝まぎれ出て、この通りの姿になって参りました」と言って、かぶった着物を取るのを見れば、尼になって出て来たのでした。「こうして様を変えて参ったからには、今までの罪を許してください。もし許すとおっしゃっていただければ、いっしょに念仏を唱えて、一つ蓮([極楽で、同じ蓮華の上に生まれかわること])の身になります。それも許されないのであれば、わたしはここからどこへでも迷い行き、どんな苔の筵、松の根にも倒れ伏して、命のある限り念仏を唱えて、往生の素懐([出家・極楽往生の願い])を遂げたいと思います」と言って、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いて懇願しました、祗王は涙を抑えて、「あなたがそれほどまで思っていたとは夢にも思いませんでした、憂き世の中の運命のことと、我が身を悲しんでいましたが、時にはあなたのことを恨めしく思い、今生も後生もなければよいと思うこともありましたが、こうして様を変えて訪ねてくれた以上、今までの恨みは、露塵ほども残っていません、今は往生を疑うこともありません。
(続く)