向かひ風に渡らんと言はばこそ、義経が僻事ならめ。順風なるが、普通に少し過ぎたればとて、これほどの御大事に、船仕らじとは、いかでか申すぞ。船疾う仕れ。仕らずは、しやつばらいちいちに射殺せ、者ども」とぞ下知し給ひける。「承はつて候ふ」とて、伊勢の三郎義盛、奥州の佐藤三郎兵衛継信、同じき四郎兵衛忠信、江田の源蔵、熊井太郎、武蔵坊弁慶など言ふ、一人当千の兵ども、「御上であるぞ、船と疾仕れ。仕らずは、おのればら一々に射殺さん」とて、片手矢矧げて、馳せ回る間、水手梶取りども、「ここにて射殺されんも同じこと、風怖くば、沖にて馳せ死ににも死ねや、者ども」とて、二百余艘が中よりも、ただ五艘出でてぞ走りける。五艘の船と申すは、先づ判官の船、次に田代の冠者の船、後藤兵衛父子、金子兄弟、淀の江内忠俊とて、船奉行の乗つたる船なりけり。残りの船は、梶原に恐るるか、風に怖づるかして出でざりけり。判官、「人の出でねばとて、止まるべきにあらず。常の時は敵も恐れて、用心すらん。かかる大風大波に、思ひもよらぬ所へ寄せてこそ、思ふ敵をば討たんずれ」とぞのたまひける。
向かい風に渡ろうとすれば、わたし(源義経)が間違っているでろう。順風だと言うのに、贅沢なことを言うものではない、今ほど大事な時に、何ということを言うのだ。船を出さないと、どの口がそのようなことを申す。船を早く出せ。船を出そうとしなければ、やつらども([しやつばら])は皆射殺してしまえ、者どもよ」と命令しました。「承知しました」と言って、伊勢三郎義盛(伊勢義盛)、奥州(今の東北地方)の佐藤三郎兵衛継信(佐藤継信)、四郎兵衛忠信(佐藤忠信、継信の弟)、江田源蔵、熊井太郎(熊井忠基)、武藏坊弁慶という、一人当千([一人で多勢にあたるほどの力があること])の兵どもが、「親方の命令であるぞ。船を早く出せ。船を出さないのなら、おまえたち皆射殺す」と言って、弓矢を構えて駆けまわる間、水手([漕ぎ手])梶取りたちに、「ここで殺されても同じこと、風が怖ければ、沖で船を漕いで死ねばよかろう、お前たち」と言って、二百艘余りの中から、わずか五艘で出発しました。五艘の船というのは、まずは判官(義経)の船、次に田代冠者(田代信綱、後三条天皇(1034~1073、在位1068~1073)の子孫らしい)の船、後藤兵衛父子(後藤実基と養子の後藤基清)、金子兄弟(金子家忠とその弟の金子親範)、淀の江内忠俊という、船奉行([軍船、水路、水軍のことを扱った役])の乗った船でした。残りの船は、梶原(梶原景時。梶原景時は大悪人だったらしい)に恐れたのか、風に怖じけ付いて出ていこうとしませんでした。義経は、「人が出ていかないからといって、出発をやめるべきではない。いつもなら敵(平家)も恐れて、用心していることだろう。このような大風大波で、思いもかけない時に攻めてこそ、敵を討つことができるのだ」と言いました。
(続く)