猛き武士の起こりを尋ぬれば、古田村、利仁など言ひけん将軍どもの事は、耳遠ければさし置きぬ。その上より今まで、源平の二流れぞ、時により折に随ひて、公の御守りとはなりにける。桓武天皇と聞こえし御門をば、柏原の御門とも申しけり。その御子に式部卿の親王と聞こえしより五代の末に、平将軍貞盛と言ふ人、維衡・維時とて、二人の子を持たりけり。間近かく栄へし西八条の清盛の大臣は、かの太郎維衡より六代の末なりき。その一門亡びしかば、この頃は、わづかにあるかなきかにぞ、彷徨ふめる。さてかの維時が名残りは、ひたすらに民となりて、平四郎時政と言ふ者のみぞ、伊豆の国北条の郡とかやにあんめる。それも維時には六代の末なるべし。
心猛き武士の始まりを尋ね求めれば、古くは田村(坂上田村麻呂)、利仁(藤原利仁)などと申す将軍に行き着きましょうが、よく知らないことでございますれば申し上げません。その昔より今まで、源平の二つ流れが、時により折りにふれて、この国を守っております。桓武天皇(第五十代天皇)と呼ばれた帝ですが、柏原帝とも呼ばれております。その御子で式部卿親王(葛原親王。桓武天皇の第三皇子)と呼ばれたお方より五代の子孫に、平将軍貞盛(平貞盛)と申す方がおられて、維衡(平維衡)・維時(平維時)と言う、二人の子を持っていました(維時は孫らしい)。遠くない昔に栄華を極めた西八条の清盛大臣(平清盛)は、貞盛の長男維衡より六代の末裔なのです。平家の一門は滅んで、この頃では、まるであるかないかの、ようでございますが。そして維時の子孫でございますが、ことごとく民となって、平四郎時政(平時政=北条時政)と申す者ばかりが、伊豆国の北条の郡(田方郡。現静岡県伊豆の国市)という所とかにいるようでございますね。この者も維時より六代の子孫でございます。
(続く)