平治にも越後の中将とて、信頼の卿に同心の間、その時すでに誅せらるべかりしを、小松殿のやうやうに申して、首を継ぎ給へり。しかるにその恩を忘れて、外人もなき所に、兵具を調へ、軍兵を語らひ置き、朝夕はただ戦合戦の営みのほかは、また他事なしとぞ見えたりける。東山鹿谷と言ふ所は、後ろ三井寺に続いて、由々しき城郭にてぞありける。それに俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄り合ひ寄り合ひ、平家滅ぼすべき謀をぞ廻らしける。ある夜、法皇も御幸なる。故少納言入道信西の子息、浄憲法印も御供仕らる。
平治の乱(1159)でも越後中将と言う者は、信頼卿(藤原信頼。平治の乱の首謀者の一人。藤原成親は信頼とともに参戦する)の味方をしたので、その時死罪となるはずでしたが、小松殿(平重盛)がなんとか取り計らって、死罪を免れたのでした(成親の妹が重盛の妻だったことかららしい)。しかしながらその恩を忘れて、仲間もいないような所に、兵具を揃え、軍兵を集めて、朝も夜も戦合戦の準備意外のことには、興味がないように見えました。東山鹿谷(今の京都市左京区、大文字山の西麓らしい)というところは、後ろを三井寺(三井寺は今の滋賀県大津市にあります。鹿谷から三井寺へは山越えしなければなりませんが、この道を「如意越え」というそうな)に続いて、城郭([とりで])にもってこいの場所でした。そこに俊寛僧都(後白河院の側近。法勝寺執行だったらしい)の山庄([別荘])がありました。そこにいつも寄り集まって、平家を滅ぼすための計画を立てていました。ある夜、後白河院もお出でになりました。故少納言入道信西(俗名藤原通憲)の子息、浄憲法印もお供に付いてきました。
(続く)