また源氏武者と言ふも、清和の御門、あるは宇多の院などの御後どもなり。二条院の御時、平治の乱れに、伊豆の国蛭が小島へ流されし兵衛の佐頼朝は、清和の御門より八代の流れに、六条判官為義と言ひし者の孫なり。左馬の頭義朝が三男になむありける。西八条の入道大臣、やうやう栄華衰へんとて、後白河の院を悩まし奉りしかば、安からず思ほされて、かの頼朝を召し出でて、軍を起こし給ひしに、しかるべき時や至りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯しに散り果てて、遂にわたつ海の底の藻屑と沈みにし後、頼朝いよいよ権を施して、さらに君の御後ろ見を仕うまつる。
また源氏武者と申すのも、清和の帝(第五十六代清和天皇)、もしくは宇多院(第五十九代宇多天皇)の後胤でございます。二条院(第七十八代二条天皇)の御時、平治の乱(1159)で、伊豆国の蛭ケ小島(現静岡県伊豆の国市)に配流となった兵衛佐頼朝(源頼朝)は、清和の帝より八代の子孫、六条判官為義(源為義)と言う者の孫なのでございます。左馬頭義朝の三男でございました。西八条の入道大臣(平清盛)の、栄華が衰えて、後白河院(第七十七代後白河天皇)を困らせたことがございましたが、心安からず思われて、頼朝を呼んで、戦を起こしましたが、運命だったのでございましょうか、平家の人々は、寿永の秋の木枯らしに散り果てて、遂に海の底の藻屑となって沈まれた後は、頼朝はますます権力を持ち、よりいっそう君(後白河院)を支えたのでございます。
(続く)