新大納言成親の卿、多田の蔵人行綱を召して、「今度御辺をば、一方の大将に頼むなり。 この事しおほせつるものならば、国をも庄をも所望によるべし。先づ弓袋の料に」とて、白布五十反贈られたり。安元三年三月五日の日、妙音院殿、太上大臣に転じ給へる代はりに、小松殿、源大納言定房の卿を越えて、内大臣に成り給ふ。やがて大饗行はる。大臣の大将めでたかりき。尊者には大炊の御門の右大臣経宗公とぞ聞こえし。一の上こそ先途なれども、父宇治の悪左府の御例、その恐れあり。北面は上古にはなかりけり。白河の院の御時、始め置かれてよりこの方、衛府ども数多候ひけり。為俊、盛重、童より今犬丸、千手丸とて、これらは左右なき切り者にてぞありける。鳥羽の院の御時も、季頼、季教父子ともに、朝家に召し使はれてありしが、常は伝奏する折もありなんど聞こえしかども、これらは皆身のほどを振る舞うてこそありしか。
新大納言成親卿(藤原成親)は、多田蔵人行綱(多田行綱)を呼んで、「今度の戦ではお主を、一方の大将に頼みたい。もしお主が大将となって戦に勝ったなら、国も荘園もお主に与えよう。先ずは弓袋([弓をおさめる袋])とせよ」と言って、白布を五十反(一反は着物一着分)を贈りました。安元三年(1177)三月五日に、妙音院殿(藤原師長)が、太政大臣になって、小松殿(平重盛。清盛の嫡男)が、源大納言定房卿(源定房)を飛び越えて、内大臣になりました。すぐに大饗([大臣の大饗]=[新たに大臣に任じられた時、大臣が親王・公卿・殿上人などを招いて催した大規模な宴会])が催されました。大臣で大将(重盛は左近衛大将でした)を兼ねることはめでたいことでした。尊者([大饗の時、正客として上座に座る者])は大炊御門右大臣経宗公(藤原経宗)といわれました。一の上([左大臣])こそ最上位でしたが、父(太政大臣藤原師長の父は、保元の乱の首謀者であった藤原頼長で、師長は頼長の次男)である宇治悪左府(藤原頼長)の例もあり、重盛を左大臣兼大将とはしませんでした(頼長は、左大臣兼左近衛大将でした)。北面([北面武士]=[院の御所の北面に詰め、院中の警備にあたった武士])は上古(昔)にはありませんでした。白河院の御時に、初めて置かれてから、衛府の武士たちが多く置かれました。為俊(藤原為俊)、盛重(藤原盛重)は、幼い頃は今犬丸(為俊)、千手丸(盛重)と言って、彼らは並ぶ者なき切り者([主君の寵愛を受けて権勢を振るう者])でした。鳥羽院の御時も、季頼(源季頼)、季教(源季教。季頼の父)父子ともに、朝家に召し使われていました、伝奏([親王・摂家・武家・社寺などの奏請を院や天皇に取り次ぐことを司った者])でもありましたが、彼らは皆身の程を知って振る舞っていました。
(続く)