この時の北面の輩は、もつてのほかに過分にて、公卿殿上人をも事ともせず、下北面より上北面に上がり、上北面より殿上の交はりを許さるる者も多かりけり。かくのみ行はるる間、奢れる心ども付きて、由なき謀反にも組みしてげるにこそ。中にも故少納言入道信西の許に召し使はれける師光、成景と言ふ者あり。師光は阿波の国の在庁、成景は京の者、熟根賎しき下郎なり。健児童、もしは恪勤者などにてもやありけん、賢々しかりしによつて、常は院へも召し使はれけるが、師光は左衛さゑ門の尉、成景は右衛門の尉とて、二人一度に靫負の尉になりぬ。一年信西事に遭ひし時、二人ともに出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西敬とて、これらは出家の後も、院の御蔵預かりにてぞ候ひける。
後白河院の北面の武士たちは、もってのほかあるまじき振る舞いを行い、公卿殿上人を気にする者もなく、下北面([北面の武士のうち、六位の者])から上北面([北面の武士のうち、四位または五位の者])に上がり、上北面より殿上人([三位以上と四位、五位のうち特に許された者])と交わる者も多くいました。そういうことで、傲慢な心も付いて、理由もなく謀反に加わったのです。中でも故少納言入道信西(保元の乱では、後白河天皇の近臣として勝利を導いたが、平治の乱で逃亡中、討たれた)に召し使われていた師光(藤原師光)、成景(藤原成景)という者がいました。師光は阿波国の在庁([在庁官人]=[地方で実務を行った役人])、成景は在京の者でしたが、どちらもその出自は身分の低い下郎([召し使い])でした。健児童([雑役兵])や、恪勤者([院・親王家・大臣家などに仕えた武士])などをしていましたが、利口者であったので、後白河院にも召し使われて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉として、二人とも靫負([衛門府])の尉となりました。平治の乱(1159)に信西が討たれた時に、二人とも出家して、左衛門入道西光(師光)、右衛門入道西敬(成景)と名乗りましたが、彼らは出家の後も、院の御蔵預かり([蔵を守る者])として後白河院に仕えていました。
(続く)