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「平家物語」俊寛沙汰鵜川軍(その3)

この時の北面のともがらは、もつてのほかに過分くわぶんにて、公卿くぎやう殿上人てんじやうびとをも事ともせず、北面よりしやう北面に上がり、上北面より殿上の交はりを許さるる者もおほかりけり。かくのみ行はるるあひだ、奢れる心ども付きて、由なき謀反にも組みしてげるにこそ。中にも故せう納言入道にふだう信西しんせいもとに召し使はれける師光もろみつ成景なりかげと言ふ者あり。師光は阿波あはの国の在庁ざいちやう、成景はきやうの者、熟根じゆつこん賎しき下郎げらふなり。健児童こんでいわらは、もしは恪勤者かくごしやなどにてもやありけん、賢々さかざかしかりしによつて、常はゐんへも召し使はれけるが、師光は左衛さゑ門のじよう、成景は右衛門の尉とて、二人ににん一度に靫負ゆきへの尉になりぬ。一年ひととせ信西事に遭ひし時、二人ともに出家して、左衛門入道西光さいくわう、右衛門入道西敬さいけいとて、これらは出家の後も、院の御蔵あづかりにてぞさふらひける。




後白河院の北面の武士たちは、もってのほかあるまじき振る舞いを行い、公卿殿上人を気にする者もなく、下北面([北面の武士のうち、六位の者])から上北面([北面の武士のうち、四位または五位の者])に上がり、上北面より殿上人([三位以上と四位、五位のうち特に許された者])と交わる者も多くいました。そういうことで、傲慢な心も付いて、理由もなく謀反に加わったのです。中でも故少納言入道信西(保元の乱では、後白河天皇の近臣として勝利を導いたが、平治の乱で逃亡中、討たれた)に召し使われていた師光(藤原師光)、成景(藤原成景)という者がいました。師光は阿波国の在庁([在庁官人]=[地方で実務を行った役人])、成景は在京の者でしたが、どちらもその出自は身分の低い下郎([召し使い])でした。健児童([雑役兵])や、恪勤者([院・親王家・大臣家などに仕えた武士])などをしていましたが、利口者であったので、後白河院にも召し使われて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉として、二人とも靫負([衛門府])の尉となりました。平治の乱(1159)に信西が討たれた時に、二人とも出家して、左衛門入道西光(師光)、右衛門入道西敬(成景)と名乗りましたが、彼らは出家の後も、院の御蔵預かり([蔵を守る者])として後白河院に仕えていました。



続く


by santalab | 2013-10-19 08:07 | 平家物語

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