源氏すでに淀川尻に出で浮かうで候へば、定めてそれをこそ告げ申され候ふらめ」と申しければ、判官、「げにさぞあるらん。その文奪へ」とて、持つたる文を奪ひ取らせ、「しやつ搦めよ。罪作りに首な斬つそ」とて、山中の木に縛り付けさせてこそ通られけれ。判官さてかの文を開けて見給へば、実に女房の文と思しくて、「九郎は鋭き男なれば、いかなる大風大波をも嫌ひ候はで、寄せ候ふらんと思え候ふ。相構へて御勢ども散らさせ給はで、よくよく用心せさせ給へ」とぞ書かれたる。判官、「これは義経に、天の与へ給ふ文や。鎌倉殿に見せ申さん」とて、深う納めてぞ置かれける。明くる十八日の寅の刻に、讃岐の国引田と言ふ所に落ち着いて、人馬の息をぞ休めける。それより白鳥、丹生屋、打ち過ぎ打ち過ぎ、屋島の城へぞ寄せ給ふ。判官また親家を召して、「これより屋島への館は、いか様なるぞ」と問ひ給へば、「知ろし召されねばこそ。無下に浅間に候ふ。潮の引て候ふ時は、陸と島との間は、馬の太腹も浸かり候はず」と申す。「敵の聞かぬ先に、さらば疾う寄せよや」とて、高松の在家に火をかけて、屋島の城へぞ寄せられける。
源氏はすでに淀川尻淀川尻に船を浮かべておりますので、きっとそれを知らせるためでしょう」と答えると、判官(源義経)も、「きっとそうだろう、その文を奪い取れ」と申して、男が持っていた文を奪わせて、「やつを縛り付けろ、罪作りに首を斬るでない」と申して、山中の木に男を縛りつけて通り過ぎました。判官が文を見れば、確かに女房からの文と思われて、「九郎(源義経)は抜け目のない男ですから、どんな大風大波もものともせず、屋島(今の香川県高松市)を攻めると思われます。よく考えて勢を分散させずに、よくよく用心なさいませ」と書いてありました。判官は、「これはわたし義経に、天が与えた文である。鎌倉殿(源頼朝)にお見せしなくては」と申して、大切にしまいました。明くる十八日の寅の刻([午前四時頃])に引田(今の香川県東かがわ市)に着いて、人馬を休ませました。そこから白鳥(今の香川県大川郡白鳥町)、丹生屋(今の香川県大川郡丹生村)を、次々に過ぎて、屋島の城に近づきました。判官はまた親家(近藤親家)を呼んで、「ここから屋島の館へは、どうやって行けばよいか」と訊ねると、親家は「知っておられませんか。ここより屋島へはまったく浅くございます。潮が引けば、陸と島の間は、馬の太腹([馬の腹の一番低い部分]さえ浸かりません」と答えました。判官は「敵に知られる前に、ならば急ぎ攻めよう」と申して、高松の在家に火を放ち、屋島の城に攻め込みました。
(続く)