新大納言は一間なる所に押し籠められて、汗水になりつつ、「あはれこれは日頃のあらまし事の、漏れ聞こえるにこそ。誰漏らしぬらん。定めて北面の輩の中にぞあるらん」なんど、思はじ事なう案じ続けておはしけるところに、後ろより足音の高らかにしければ、すはただ今我が命失はんとて、武士どもの参るにこそと思はれければ、さはなくして、入道板敷き高らかに踏み鳴らし、大納言のおはしける後ろの障子を、さつと引き開けて入でられたり。素絹の衣の短なるに、白き大口踏みくくみ、聖柄の刀押しくつろげて差すままに、もつてのほかに怒れる気色にて、大納言をしばし睨まへて、「そもそも御辺は、平治にもすでに誅せらるべかりしを、内府が身に代へて申し受け、首を継ぎ奉つしはいかに。しかるにその恩を忘れて、何の遺恨あつてか、当家傾けうどはし給ふなるぞ。恩を知るをもつて人とは言ふぞ。恩を知らざるをば畜生とこそ言へ。されども当家の運命いまだ尽きざるによつて、これまでは迎へたんなり。日頃のあらましの次第、直に承らん」とのたまへば、大納言、「まつたくさること候はず。いかさまにも人の讒言にてぞ候ふらん。よくよく御尋ね候ふべし」と申されければ、入道言はせも果てず、「人やある、人やある」と召されければ、貞能つと参りたり。「西光めが白状取つて参れ」とのたまへば、持つて参りたり。入道これを取つて、押し返し押し返し二三遍高らかに読み聞かせ、「あな憎や、この上をば何とか陳ずべかんなるぞ」とて、大納言の顔にさつと投げかけ、障子をちやうど引き立てて出でられけるが、なほ腹を据ゑかねて、経遠兼康と召す。難波次郎、妹尾の太郎参りたり。「あの男捕つて、庭へ引き落とせ」とのたまへども、これらさうなうもし奉らず、「小松殿の御気色、いかが候はんずるやらん」と申しければ、入道、「よしよし、己らは、内府が命を重んじて、入道が仰せをば軽うしけるござんなれ。この上は力及ばず」とのたまへば、これら悪しかりなんとや思ひけん、立ち上がり、大納言の左右の手を取つて、庭へ引き落とし奉る。その時入道心地良げにて、「取つて伏せて喚かせよ」とぞのたまひける。二人の者ども、大納言の左右の耳に口を当てて、「いかさまにも御声の出づべう候ふ」と、ささやいて引き伏せ奉れば、二声三声ぞ喚かれける。その体、冥土にて、娑婆世界の罪人を、あるひは業秤にかけ、あるひは浄玻璃の鏡に引き向けて、罪の軽重に任せつつ、阿防羅刹が呵責すらんも、これには過ぎじとぞ見えし。蕭焚捕らはれて、韓彭そかいされたり。
新大納言(藤原成親。後白河院の側近)は一間ばかりの所に幽閉されて、汗だくになって、「哀しいことだがこれも日頃計画していた事が、平家に知られたからだ。いったいだれが密告したのか。きっと北面武士の仲間の中の誰かに違いない」などと、思う限りをあれこれと考え続けていましたが、後ろから大きな足音が聞こえてきたので、とっさに今にもわたしを殺そうとして、武士たちがやって来たと思いましたが、そうではなくて、入道(平清盛)が板敷きを大きく踏み鳴らしながら、大納言(成親)の後ろの障子を、さっと引き開けて入ってきました。素絹の衣([生糸で織った絹で作った白い僧服])の短いものに、白色の大口([大口袴]=[裾の口が大きい下袴])をダボっと履いて、聖柄([三鈷柄]=[刀剣の柄を三鈷、つまり二本の角を付けつ又の形に作った刀])をダラっと提げて、見たこともないほど怒った様子で、成親をしばらく睨んでから、「そもそもお主は、平治の乱ですでに死罪になるべきものを、内府([内大臣]=平重盛。清盛の嫡男)が勧賞と引き換えに預かったからこそ、首を継ぐことができたのです。なのにその恩を忘れて、いったい何の恨みがあって、平家を滅ぼそうなどと思ったのか。恩を知って人と言う。恩を知らないものは畜生と言うのだ。けれども当家の運命はまだ尽きていないからこそ、お前をここに連れてきたのだ。平家のことをどう思っているのか、直接聞きたいのだ」と言いました、成親は、「平家を倒そうなどとまったく思っていません。きっと誰かがわたしのことを悪く言ったのでしょう。よくよく調べてください。」と答えましたが、清盛は成親の言葉をさえぎって、「人はいるか、人はいるか」と呼べば、貞能(平貞能)がすぐにやって来ました。清盛は、「西光(俗名藤原師光。後白河院の近臣)を白状させてこい」と命じると、貞能は調書を持って帰りました。清盛はこれを受け取って、くり返しくり返し二三度大声で成親に読み聞かせ、「ああ憎いやつめ、この上は何と言い訳するつもりか」と言って、大納言の顔に調書をサッと投げて、障子をピシャりと上げて部屋を出ていきましたが、なおも怒りが静まらなくて、経遠(難波経遠)と兼康(妹尾兼康)を呼びました。難波次郎(経遠)、妹尾太郎(兼康)がやって来ました。清盛は、「あの男を捕まえて、庭に落としてしまえ」と言いましたが、これはさすがに出来なくて、「小松殿(重盛)の機嫌が、悪くなりますから」と言い訳しました、清盛は、「そうかそうか、お前たちは、重盛の言うことを聞いて、わしの命令は聞けぬというのだな。この上はあきらめるしかない」と言ったので、経遠、兼康はこのままでは良くないと思ったのか、立ちあがって、成親の左右の手を取って、庭に引き落としました。その時清盛は心地良さげで、「成親を押さえこんで悲鳴を上げさせろ」と言いました。経遠と兼康は、成親の左右の耳に口を近づけて、「嘘でも声を上げなさい」と、ささやいてから成親を押さえんだので、成親は二声三声悲鳴を上げました。その様子は、冥土([あの世])で、娑婆世界([この世])の罪人を、業の秤([地獄で、生前の悪業の軽重をはかるという秤])にかけ、あるいは浄玻璃の鏡([地獄の閻魔庁にあって、死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡])の前に立たせて、罪の軽重を判断し、阿防羅刹(地獄で死者を責めるという悪鬼らしい。阿防羅刹は鉄杖をもって罪人を責めるそうな)が罪人を責めるのも、これには過ぎないと思われました。蕭焚(前漢の初代皇帝劉邦の近臣蕭何と焚噌)が捕らわれて、韓彭(同じく劉邦の近臣であった韓信と彭越)が塩漬けにされたようなものでした(いずれの者も讒言によって処罰されたそうです)。
(続く)