少将の乳母に六条と言ふ女あり。「我御乳に参り始め候ひて、君を血の中より抱き上げ奉り、生し立て参らせしよりこの方、月日の重なるに従つて、我が身の歳の行くをば嘆かずして、ひとへに君の大人しう成らせ給ふことをのみよろこび、あからさまとは思へども、今年は二十一年、片時も離れ参らせ候はず。院内へ参らせ給ひて、遅う出でさせ給ふだに、心苦しう思ひ参らせ候ひつるに、終にいかなる憂き目にか遭はせ給ふべきやらん」とて泣く。少将、「いたうな嘆いそ。さて宰相おはすれば、さりとも命ばかりをば、請ひ受け給はんずるものを」と、やうやうに慰めのたまへども、六条人目も恥ぢず、泣き悶えけり。さるほどに西八条殿より使ひ頻並みにありしかば、宰相、「今はただ出で向かつてこそ、ともかうもならめ」とて出でられければ、少将も宰相の車の後に乗つてぞ出でられける。保元平治よりこの方、平家の人々は、たのしみ栄えのみあつて、憂へ嘆きはなかりしに、この宰相ばかりこそ、由なき婿故に、かかる嘆きをばせられけれ。西八条近うなつて、先づ案内を申されたりければ、少将をば門の内へは入れらるべからずとのたまふ間、その辺なる侍の許に下ろし置き、宰相ばかりぞ、門の内へは参られける。いつしか少将をば、武士ども四方をうち囲んで、厳しう守護し奉る。少将のさしも頼もしう思はれつる宰相殿には放たれ給ひぬ。少将の心の内、さこそは頼りなかりけめ。
成経の乳母に六条という女がいました。「わたしは乳母として参って、成経殿を生まれてすぐに抱き上げ、世話をして参りましたが、月日が経つにつれ、我が身が歳を取ることを嘆かずして、ただ成経殿が大人になって行くことだけをよろこび、言うまでもないことですが、二十一年間、片時も離さずにいました。院内(院御所と内裏)に出仕されて、帰りが遅いのを、心苦しく思っておりましたが、どうしてこのような憂き目に遭わなくてはならないのでしょう」と言って泣きました。成経は、「そんなに悲しまないでおくれ。教盛殿が付いていることだから、命ばかりは、助けてくれることだろう」と、慰めましたが、六条は人目も恥じることなく、泣き叫びました。やがて西八条殿より使いが何度もやって来て、教盛は、「こうなっては出かけないことには、どうにもならぬ」と出て行くと、成経も教盛の車の後ろに乗って一緒に出かけて行きました。保元平治(保元の乱、平治の乱)より、平家の者たちは、たのしみ栄えることばかりあって、憂え嘆くことはありませんでしたが、この教盛ばかりが、謀反に加担した婿(成経)のために、このような悲しみに遭いました。西八条殿に着いて、先ず案内を頼むと、成経を門の内に入れるべからずとのことだったので、このあたりの侍の許に成経を下ろし置いて、教盛だけが、門の内へ入って行きました。すぐに成経を、武士たちが四方を囲んで、厳重に守護しました。成経が頼もしく思っていた教盛殿と離れました。成経の心の内は、とても不安だったことでしょう。
(続く)