召され参らせし御声の耳に留まり、諫められ参らせし御言葉の肝に銘じて、忘るることも候はず。西国へ御下り候ひし時も、御供仕るべう候ひしかども、六波羅より許されなければ、力及び候はず。たとひ今度はいかなる憂き目にも遭ひ候へ、御文賜はつて参り候はん」と申しければ、北の方斜めならずによろこび、やがて書いてぞ賜うでげる。若君姫君も面々に御文あり。信俊この御文どもを賜はつて、はるばると備前の国有木ありきの別所へ尋ね下り、先づ預かりの武士難波二郎経遠に、案内を言ひ入れたりければ、経遠心ざしのほどを感じて、やがて御見参に入れてげり。大納言入道殿は、ただ今しも都のことをのみのたまひ出だして、嘆き沈んでおはしけるところに、「京より信俊が参つて候ふ」と申しければ、大納言起き上がつて、「いかにやいかに、夢かや現か、これへこれへ」とぞのたまひける。信俊御傍近う参つて、御有様を見奉るに、先づ御住まひ所の物憂さは、さることなり。墨染めの御袖を見奉るに、目も暮れ心も消え果てて、涙もさらに止まらず。
成親殿(藤原成親)が呼び出され内裏に参った時の声がわたしの耳に残って、諫められながら参ったその言葉を忘れないようにと、決して忘れることができないことなのです。成親殿が西国へ下る時も、お供しようと思っていましたが、六波羅より許しが出なかったので、どうしようもありませんでした。たとえ今度はどのような憂き目に遭おうが、北の方より文をいただいて成親殿のもとに参ろうと思います」と言ったので、成親の妻はとてもよろこんで、すぐに文を書いて信俊(源信俊)に手渡しました。若君姫君もそれぞれ文を書きました。信俊はこれらの文を受け取って、はるばる備前国有木(今の岡山県岡山市北区吉備津有木)の別所([本寺から離れた一定の区域内の、僧が修行のためにとどまる場所])を訪ねて、まず預かりの武士である難波次郎経遠(難波経遠)に、取り次ぎを請うと、経遠は信俊の気持ちに心を動かされて、すぐに成親に会わせてくれました。大納言入道殿(成親)は、つい今まで都のことだけを思い出して、嘆き悲しんでいましたが、信俊が、「京から信俊が訪ねてきました」と知らせたので、成親は起き上がって、「どうしたことか、これは夢か現実か、さあここへ」と言いました。信俊は成親の近くに参って、成親の様子を見ましたが、まず暮らしの辛さは、いうまでもないことでした。まして黒染め([僧衣])の袖を見れば、目もくらみ心を失って、涙はさらに止まることを知りませんでした。
(続く)