さるほどに法勝寺の執行俊寛僧都、丹波の少将成経、平判官康頼、これ三人をば、薩摩潟鬼界が島へぞ流されける。(『新大納言死去』)
さるほどに鬼界が島の流人ども、露の命草葉の末にかかつて、惜しむべし徒にはあらねども、丹波の少将の舅平宰相教盛の領、肥前の国鹿瀬の庄より、衣食を常に送られたりければ、それにてぞ俊寛も康頼も命生きては過ごしける。中にも康頼は流されし時、周防の室積にて出家してげり。法名をば性照とこそ付いたりけれ。出家はもとより望みなりければ、
終にかく 背き果てける 世の中を 疾く捨てざりし ことぞ悔しき
やがて鬼界が島(鹿児島硫黄島?もしかして奄美鬼界島?)の流人たちは、はかない露の命ももう少しであの世へ行ってしまおうとしていましたが、命を惜しむような者ではないにしても、丹波少将(藤原成経)の義父(成経の妻の父)であった平宰相教盛(平教盛。清盛の弟)の領である、肥前国鹿瀬庄(今の佐賀県佐賀市)から、衣食をたびたび送られていたので、そのお蔭で俊寛も康頼(平康頼)もなんとか命を生きて過ごしていました。中でも康頼は流罪になった時に、周防の室積(今の山口県光市室積)で出家していました。法名を性照と付けました。出家はもとからの望みでしたので、
終にわたしが背きそして果てる世の中を捨てることができました。ただ、こんなに早く捨てることだけが悔しいのです。
(続く)