同じき三月十六日、少将鳥羽へ明うぞ着き給ふ。故大納言殿の山荘、州浜殿とて鳥羽にあり。それに立ち寄り見給へば、住み荒らして年経にければ、築地はあれども覆ひもなく、門はあれども扉もなし。庭に立ち入り見給へば、人跡絶えて苔深し。池のほとりを見回せば、秋の山の春風に、白波しきりに折り掛けて、紫鴛白鴎逍遥す。興ぜし人の恋しさに、ただ尽きせぬものは涙なり。家はあれども、羅門破れて、蔀、遣り戸も絶えてなし。「ここには大納言殿の、とこそおはせしか。この妻戸をば、かうこそ出で入り給ひしか。あの木をば、みづからこそ植ゑ給ひしか」なんど言うて、言の葉につけても、ただ父のことをのみ恋しげにこそのたまひけれ。弥生中の六日なれば、花は今だ名残りあり。楊梅桃李の梢こそ、折知り顔に色々なれ。昔の主はなけれども、春を忘れぬ花なれや。少将花の下に立ち寄りて、
桃李不レ言春幾隠煙霞無レ跡昔誰栖
ふるさとの 花の物言ふ 世なりせば いかに昔の ことを問はまし
同じ三月十六日に、少将(藤原成経)は鳥羽(今の京都市南区・伏見区あたり)に明るい内に着きました。故大納言殿(藤原成親。成経の父)の山荘、州浜殿が鳥羽にありました。成経はそこに立ち寄りました、住んで長い間ほったらかしにしていたので、築地([土塀])は残っていましたが屋根はなく、門はあっても扉はありませんでした。庭に立ち入って見てみると、人の住んだ跡はすっかり絶えて苔が深く生っていました。池のほとりを見まわすと、秋の山(紅葉の木を植えた山)に春風が吹いて、白波が折り返し寄せて、紫鴛白鴎(紫のおしどりと白いかもめ)が逍遥([気ままにあちこちを歩き回ること])していました。ここで興じた人(成親)が恋しくて、ただ尽きることのないのは涙でした。家は残っていましたが、羅門([格子])は壊れて、蔀([格子を取り付けた板戸])、遣り戸([引き戸])も残っていませんでした。「ここは成親殿が、通った所だろうか。この妻戸([両開きの板扉])は、こうして出入りしたのだろうか。あの木は、成親殿自ら植えたものだろうか」などと言って、言葉にする度に、ただ父のことを恋しく言うのでした。弥生([陰暦三月])の十六日のことでしたので、花はまだ名残りを残していました。楊梅([やまもも])桃李([桃とすもも])の梢には、時を知っているかのように花が様々の色を付けていました。昔の主(成親)はいなくなっても、春を忘れない花でした。成経は花の下に立ち寄って、
桃李物言いはず春いくばく隠れぬる煙霞跡なし昔誰か住んじ=桃李は何も言わないので、春がどれほど隠れていたのか知りません。煙霞([煙のように立ちこめた霞])は跡を残さないので、昔いったい誰の住みかだったのかもわかりません。
ふるさとの花が何かもの言う世の中であれば、なんとしてもも昔のことを聞いてみたいものです。
(続く)