いまだ子もなければ、立ち継ぐべき人もなし。事鎮まりなんほどとて、故大臣の北の方二位殿政子と言ふ人、二人の子をも失ひて、涙干す間もなく、萎れ過ぐすをぞ、将軍に用ゐける。かくてもさのみはいかがにて、「君達一所下し聞こえて、将軍になし奉らせ給へ」と、公経の大臣に申し上せければ、敢へなんと思すところに、九条左大臣殿の上は、この大臣の御娘なり。その御腹の若君の、二つになり給ふを、下し聞こえんと、九条殿のたまへば、御孫ならんも同じことと思して、定め給ひぬ。
実朝(源実朝。鎌倉幕府第三代将軍)にはまだ、子がいませんでしたので、後を継ぐ者はおりませんでした。この騒ぎがおさまった頃、故大臣(源頼朝)の北の方であられた二位殿政子(北条政子)と申すお方が、二人の子(源頼家と源実朝)を失って、涙が乾く間もなく、沈んでおられながらも、将軍として立たざるを得なくおなりになられたのでございます。二位殿はさすがに将軍に立つのはどうかと思われて、「君達を一人鎌倉に下されて、将軍にさせてはいかがでしょう」と、公経大臣(西園寺公経)に文を遣わせましたが、適当な者がおりませんでした。九条左大臣殿(九条道家)の上(正室)は、この大臣の娘(西園寺綸子)でした。この娘の若君で、二歳になっていた者を、鎌倉に下してはいかがと、九条殿(九条道家)が申されたので、公経も孫も子も同じことと思って、この子(三寅、後の藤原頼経)を下されることになったのでございます。
(続く)