その年の六月に、東に率て奉る。七月十九日におはしまし着きぬ。襁褓の内の御有様は、ただ形代などを祝ひたらんやうにて、万の事、さながら右京権の大夫義時朝臣心のままなり。されど、一の人の御子の将軍になり給へるは、これぞ初めなるべき。かの平家の亡ぶべき世の末に、人の夢に、「頼朝が後は、その御太刀預かるべし」と、春日大明神仰せられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。
その年(承久元年(1219))の六月に、この子を東国に下されたのでございます。七月十九日に鎌倉に着かれました。襁褓([産着])に包まれて、まるで形代([祭りのとき、神霊の代わりとして置くもの。人形])を飾るようなものでございましたので、万事、右京権大夫義時朝臣(北条義時。北条政子の弟で鎌倉幕府第二代執権)の思うがままでございました。けれども、一の人([摂政・関白])の子が将軍(鎌倉幕府第四代将軍)になられたのは、これが初めてのことでございました。平家が亡んだ世(平安時代)の末に、ある人の夢に、「頼朝(源頼朝)の後は、その太刀をわたしが預かりますぞ」と、春日大明神が申されたのは、この若君(藤原頼経)のことだったのでございましょう(春日大明神は藤原氏の氏神)。
(続く)