大臣またいかなる善根をもして、後世弔はればやと思はれけるが、我が朝にはいかなる大善根をし置いたりとも、子孫相続いて、重盛が後世弔はんことあり難し。他国にいかなる善根をもして、後世弔はれんとて、安元の春の頃、鎮西より妙典と言ふ船頭を召し上せ、人をはるかに退けて対面あり。黄金を三千五百両召し寄せて、「なんぢは聞こゆる大正直の者なれば」とて、「五百両をばなんぢに得さす。三千両をば宋朝へ渡し、一千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、重盛が後世弔はすべし」とぞのたまひける。妙典これを賜はつて、万里の煙浪らうをしのぎつつ、大宋国へぞ渡りける。育王山の方丈、仏照禅師徳光に会ひ奉て、この由申しければ、随喜感嘆して、やがて千両をば、育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、小松殿の申されつるやうを、つぶさに奏聞せられければ、帝大きに感じ思し召して、五百町の田代を、育王山へぞ寄せられける。されば日本の大臣、平の朝臣重盛公の後生善処と祈ること、今にありとぞ承る。
小松大臣(平重盛。清盛の嫡男)はどのような善根([よい報いを招くもとになる行為])もして、後世([来世の安楽])を供養してほしいと思っていましたが、日本ではどんな大善根をなしたとしても、子孫も引き続き、重盛の後世を弔うことは難しいことでした。中国でどうにか善根を行い、後世を弔ってほしいと、安元(1175~1177)の春の頃、鎮西([九州])より妙典という船頭を呼んで、人を遠ざけて対面しました。黄金を三千五百両持ってこさせて、「お前は噂の大正直者だから」と重盛は言って、「五百両をお前に与えよう。三千両を宋朝(宋(960~1279)は中国王朝ですね)へ渡し、そのうちの一千両を育王山([阿育王山]=[今の中国浙江省、九州と東シナ海を隔てた対岸あたりにある山]、宋代には広利寺という五山、つまり五大寺の一つがあったそうです)の僧に与えて、二千両は帝に献上して、田代([田地])を与えるので、重盛の後世を弔ってほしいのだ」と言いました。妙典はこれを受けて、万里の煙浪([煙波]=[水面が煙るように波立っている様子])を押しのけて進み、大宋国にわたりました。育王山の住職であった、仏照禅師徳光(拙庵徳光。宋代の臨済宗の僧だったらしい)に会って、重盛の願いを話すと、随喜([他人のなす善を見て、喜びの心を生じること])感嘆([感心してほめたたえること])して、すぐに千両を、育王山の僧に与え、二千両は帝に献上して、重盛の話したとおりに、こと細かく話すと、帝はとてもよいことだと考えられて、五百町(一町は十段で約300坪ですから15万坪になります)の田代を、育王山へ与えました。こうして日本の大臣(重盛は内大臣でした)である、平朝臣重盛公の後生([来世])善処([来世に生まれるべきよい場所])を祈ること、今も続くと聞いております。
(続く)