前の関白松殿の侍に、江大夫の判官遠成と言ふ者あり。これも平家に心快からざりけるが、六波羅よりからめ捕らるべしと聞こえしほどに、子息江左衛門の尉家成相具して、南を指して落ち行きけるが、稲荷山にうち上がり、馬より下りて、親子言ひ合はせけるは、「これより東国へ落ち下り、流人前の右兵衛の佐頼朝を頼まばやとは思へども、それも当時は勅勘の身にて、我が身一つをだに叶ひ難うおはすなり。そのほか日本国に、平家の庄園ならぬ所やある。とても逃れざらんもの故に、年来住み慣れたる所を、人に見せんも恥がまし。これより取つて返し、六波羅より召し使ひあらば、館に火かけ焼き上げ、腹かき切つて死なんにはしかじ」とて、また瓦坂の宿所へとつて返す。案のごとく源大夫の判官季定、津の判官盛澄、直兜三百余騎、河原坂の宿所へ押し寄せて、時をどつとぞ作りける。
前関白松殿(松殿基房=藤原基房)の侍に、江大夫判官遠成(大江遠成)という者がいました。この者も平家に憎まれていましたが、六波羅より捕えると聞こえてきたので、子の江左衛門尉家成(大江家成)を連れて、南を目指して逃げて行きましたが、稲荷山(今の京都市伏見区にある伏見稲荷大社の神体山)に上り、馬から下りて、親子で相談するには、「ここから東国へ逃げて、流人の前右兵衛佐頼朝(源頼朝)を頼ろうと思うが、頼朝殿は今勅勘([天皇から受ける咎め])の身であるから、我が身一つさえままならないであろう。そのほか日本国に、平家の庄園でない場所があるだろうか。とても逃げ切れるものではないし、年来住み慣れた所を、人に見られるのも恥である。ここから戻って、六波羅から呼び出されたら、家に火をつけて燃やし、腹を切って死のうではないか」と言って、また瓦坂(今の京都市東山区)の宿所に戻りました。思った通り源大夫判官季定(源季定)、津判官盛澄(平盛澄)ら、鎧兜に身を固めた三百騎余りが、河原坂の宿所へ押し寄せて、時の声をどっと上げました。
(続く)