同じき二十日の日、法住寺殿をば、軍兵ぐんびやう四面をうち囲んで、平治へいぢに信頼のぶよりの卿きやうが三条さんでう殿をしたりし様やうに、御所に火をかけ、人をば皆焼き滅ぼすべき由聞こえしかば、局の女房、怪しの女童めわらはにいたるまで、物をだにうち被かづかずして、我先に我先にとぞ逃げ出でける。前さきの右大将だいしやう宗盛むねもりの卿御車を寄せて、「疾とう疾う」と申まうされたりければ、法皇ほふわう叡慮を驚かせおはしまし、「成親なりちか俊寛しゆんくわんらがやうに、遠とほき国、はるかの島へも移し遣られんずるにこそ。さらに御咎とがあるべしとも思し召さず。主上しゆしやうさて渡らせ給へば、政務の口入こうじゆするばかりなり。それもさらずは、自今じごん以後、さらでも有れかし」と仰おほせければ、宗盛の卿涙をはらはらと流いて、「いかにただ今、さる御事候さふらふべき。
同じ治承ぢしよう三年(1179)十一月二十日に、法住寺殿(今の京都市東山区にある寺院。後白河院の院御所でした)を、兵が包囲して、平治に信頼卿(藤原信頼)が三条殿(当時の後白河院御所。『平治物語』「三条殿へ発向付けたり信西の宿所焼き払ふ事」)にしたように、御所に火をかけ、人を皆焼き滅ぼすと聞こえたので、局の女房から、身分の低い女童([女の子])にいたるまで、着物を羽織る間もなく、我先にと逃げ出しました。前右大将宗盛卿(平宗盛。清盛の三男)は車を寄こして、「早く早く」と叫んだので、後白河院は驚いて、「成親(藤原成親)俊寛たちのように、遠国、はるかの島へ連れて行くつもりか。わしに何の罪があるというのじゃ。主上(高倉天皇)の、政務に口出ししただけのことではないか。それもならぬとならば、今後、口出ししないようにするぞよ」と言ったので、宗盛は涙をはらはらと流して、「今は、そのようなことを仰られている隙はありません。
(続く)