法皇は城南の離宮にして、冬も半ば過ごさせ給へば、野山の嵐の音のみ激しくて、寒庭の月ぞさやけき。庭には雪降り積もれども、跡踏み作る人もなく、池にはつらら閉ぢ重ねて、群れ居し鳥も見えざりけり。大寺の鐘の声、遺愛寺の聞きを驚かし、西山の雪の色、香炉峰の望みを催す。夜霜に寒けき砧の響き、かすかに御枕に伝ひ、暁氷をきしる車の跡、はるかの門前に横たはれり。ちまたを過ぐる行人征馬の急がはしげなる景色、憂き世を渡る有様も、思し召し知られてあはれなり。宮門を守る蛮夷の、夜昼警衛を務むるも、「前の世のいかなる契りにて、今縁を結ぶらん」と、仰せなりけるぞかたじけなき。およそ物に触れ事に従つて、御心を痛めしめずと言ふことなし。さるままには、かの折々の御遊覧、所々の御参詣、御賀のめでたかりしことども、思し召し続けて、懐旧の御涙抑へ難し。年去り年来たつて、治承も四年になりにけり。
法皇(後白河院)は城南離宮(今の京都市伏見区にあった鳥羽殿)で冬を半ば過ごしました、野山の嵐の音だけが激しく、寒庭([寒々とした感じの庭])を月が明るく照らすばかりでした。庭には雪が降り積もっていましたが、踏跡を作る者もなく、池にはつららが張って、群れる鳥さえいませんでした。大寺(鳥羽殿の北殿に属する御堂であった勝光明院)の鐘の音を、遺愛寺(中国江西省の廬山にあった寺)の鐘を枕をそばだてて聴くかのごとく、西山の雪の色を、香爐峯(中国江西省北端にある廬山の一峰)の雪を簾を差し上げて見るかのようでした。夜霜にまじって寒々とした砧([衣を打って、やわらかくしたりつやを出したりする木槌])の響きが、かすかに枕元に聞こえ、夜明け前に氷をきしらせて通る車の跡が、遠く門前に横たわっていました。ちまた([通り])を過ぎる行人([道行く人])や征馬([旅に出るときに乗る馬])が忙しげな様子を見るにつけ、憂き世を渡っているのだと、思われて悲しくなりました。宮門([宮殿・皇居の門])を守る蛮夷([野蛮人])が、昼夜警衛を努めるのさえ、「前世にどのような約束があって、今こうして縁を結ぶのだろうか」と、おっしゃるのも面目ないことでした。およそ見るにつけ何をするにつけ、心を痛めないことなどありませんでした。そして、かつての折々の遊覧、所々の参詣、御賀([祝賀])など楽しかったことを、思い出されて、懐旧の涙を抑えることができませんでした。こうして年は去り新年を迎えて、治承も四年(1180)になりました。
(ここでは、白居易の詩、「日高睡足猶慵起、小閣重衾不怕寒、遺愛寺鐘欹枕聽、香爐峰雪撥簾看、匡廬便是逃名地、司馬仍爲送老官、心泰身寧是帰處、故郷何独在長安」を引いています。匡廬=廬山のこと、司馬=夏官、つまりの軍政を司る長官のことで、要約すると、「廬山こそは、都を遁れ余生を過ごすのにちょうどよい場所である。司馬は、老官には十分な待遇である。心もからだも安らぐ場所はこの廬山なのだ。どうして故郷を都長安一つと思わなければならないのか」のような感じでしょうか。「どうでもよいこと」=「決してどうでもよくはないこと」で、都落ちの「悲しさ」が感じられる詩なのです。)
(続く)