さるほどに、宮は五月十五夜の雲間の月を眺めさせ給ひて、何の行方も思し召しよらざりけるに、三位入道の使者とて、文持ちて急がはしげに出できたる。宮の御乳母子、六条の佐の大夫宗信、これを取つて御前へ参り、開いて見るに、「君の御謀反すでに顕はれさせ給ひて、土佐の畑へ移し参らすべしとて、官人どもが別当宣を承つて、お迎ひに参り候ふ。急ぎ御所を出でさせ給ひて、三井寺へ入らせおはしませ。入道もやがて参り候はん」とぞ書かれたる。宮はこのこといかがせんと、思し召しわづらはせ給ふところに、宮の侍に長兵衛の尉長谷部の信連と言ふ者あり。折り節御前近う候ひけるが、進み出でて申しけるは、「ただ何のやうも候ふまじ。女房装束に出で立たせ給ひて、落ちさせ給ふべうもや候ふらん」と申しければ、この儀もつともしかるべしとて、御櫛を乱り、重ねたる御衣に、市女笠をぞ召されける。六条佐大夫宗信、唐傘持ちて御供仕る。鶴丸と言ふ童、袋に物入れて頂いたり。
その頃、高倉宮(以仁王。後白河院の第三皇子)は五月の十五夜の雲間の月を眺めて、これから身に降りかかる災いに何も気にとめていませんでしたが、三位入道(源頼政)の使者だといって、文を持って急いでやって来ました。高倉宮の乳母子である、六条佐大夫宗信(藤原宗信。ということは乳母は藤原経通女ですかね)が文を受け取って御前に持ってきて、高倉宮がこれを開いて見ると、「宮の謀反はすでに知られてしまい、土佐畑(配流地)に流すべきだと、官人たちが別当宣([検非違使別当宣]=[検非違使別当の命令])を受けて、高倉宮を捕えにやってきています。急いで御所を出て、三井寺(天台寺門宗の総本山園城寺。今の滋賀県大津市にあります)に逃げなさい。入道(頼政)もすぐに参ります」と書かれていました。宮はどうしようかと、思い悩んでいました、高倉宮の侍で長兵衛尉長谷部信連(長谷部信連)という者がいました。ちょうど御前の近くにいましたが、進み出て申すには、「何も心配はいりません。女房の格好でここを出て、お逃げになるのがよいでしょう」と言ったので、高倉宮はそうするべきだと思って、髪を下ろして、女御の着物を重ね着て、市女笠([本来は女性用の菅笠。雨具として男性も用いたらしいが])をかぶりました。宗信は、唐傘([傘])を持ってお供に付きました。鶴丸という童は、袋に物を入れて頭にのせました。
(続く)