名を惜しむ青侍、その家に望むことなし。しかればすなはち去んぬる平治元年十二月、太上天皇一戦の功を感じて、不次の賞を授け給ひしよりこの方、高く相国に上つて、かねて兵仗を賜はる。男子あるひは台階をかたじけなうし、あるひは羽林に連なり、女子あるひは中宮職に備はり、あるひは准后の宣を蒙る。群弟庶子、皆棘に歩み、その孫かの甥、ことごとく竹符を裂く。しかのみならず九州を統領し、百司を進退して、奴婢皆僕従となす。一毛心に違へば、王侯と言へどもこれを捕らへ、片言耳に逆ふれば、公卿と言へどもこれをからむ。これによつて、あるひは一旦の身命を延べんがため、あるひは片時の陵辱を逃れんと思つて、万乗の聖主、なほ面展の媚びを成し、重代の家君、かへつて膝行の礼をいたす。代々相伝の家領を奪ふと言へども、上宰も恐れて舌をまき、宮々相承の庄園を取ると言へども、権威に憚つて物言ふことなし。
名声が失われるのを惜しむ青侍([身分の低い若侍])は、家柄を気にすることもなし。なれば去る平治元年(1159)十二月に、太上天皇(後白河院)は一戦(平治の乱)の功によって、破格の賞を授けてからというもの、清盛は相国([太政大臣])まで上り、兵仗([兵仗宣下]=[随身を召し連れることを勅許されること])を賜わったのだ。平家一門は男ならば台階([大臣])の位を辱しめ、またある者は羽林([近衛中将・少将])に連なり、女は中宮職([中務省の役人])に就き、または准后([准三后]=[太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮の三宮に準じる者])の宣旨を蒙る。清盛の弟や清盛の子どもは、皆棘路([公卿])となって、孫や甥は、竹符([竹使符]=[郡国の守に任ずる時に授けた竹の符])を裂いて国司になった。その上に九州を統領して、百司([諸司])を意のまま任じ、奴婢([下男と下女])を召し使う。少しでも気に入らなければ、王侯であっても捕らえ、わずかでも逆らえば、公卿であっても縛りつけた。これによって、ある者はわずかの命を永らえるため、または一時の凌辱([恥])から逃れるために、万乗の聖主([君主])でさえも、面展([面拝]=[人に面会すること])の度に媚びをなして、代々要職にあった家君([一家の長])も、膝を折って礼をする。代々相伝の家領を奪われても、上宰([大臣])でさえ恐れて何も言えず、宮々が代々受け継いだ庄園を取られても、権威に怯えるばかりです。
(続く)