この中納言は、女院の御乳母、宰相殿と申す女房に相具して、常は参り通はれければ、日頃はなつかしうこそ思し召しつるに、この宮の御事申しに参られたれば、いつしか疎ましうぞ思し召されける。若宮、女院に申まうさせ給ひけるは、「これほどの御大事に及び候ふ上、終には逃れ候ふまじ。はやはや出ださせおはしませ」と申させ給ひければ、女院御涙を流させ給ひて、「人の七つ八つは、今だ何事をも聞き分かぬほどぞかし。それに御身故、かかる大事の出できたるを、傍ら痛く思して、かやうに仰せらるることよ。由なかりける人を、この六七年手慣らして、今日はかかる憂き目を見るよ」とて、御涙堰き敢へさせ給はず。頼盛の卿、若宮の御事重ねて申しに参られたれば、女院力及ばせ給はず、終に出だし参らさせ給ひけり。御母三位の局、今を限りの御別れなれば、さこそは御名残り惜しうも思し召されけめ。さてしもあるべきことならねば、泣く泣く御衣着せ参らせ、御櫛かき撫でて、出だし参らさせ給ふも、ただ夢とのみぞ思はれける。女院を始め参らせて、局の女房、女の童にいたるまで、涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。
この中納言(平頼盛。清盛の弟)は、女院(鳥羽院の皇女暲子内親王)の乳母、宰相殿という女房と夫婦になり、いつも暲子内親王の許に通っていたので、なつかしく思っていましたが、若宮(以仁王の皇子)の事を申しに参るので、いつしか疎ましく思うようになりました。若宮が、暲子内親王に申すには、「これほどの大事件になったからには、これ以上逃れることはできません。早くわたしを渡してください」と申したので、暲子内親王は涙を流して、「七つ八つであれば、物事を理解しないものです。それにましてや我が身の上のことで、このような大事になったと、心を痛めて、このようにおっしゃられるのでしょう。成り行きで、この六七年育てて参りましたが、今日このような憂き目を見るとは思いもしませんでした」と言って、涙を抑えることができませんでした。頼盛卿が、若宮を渡すようにと重ねて申しに参ったので、暲子内親王はどうすることもできず、若宮を出させたのでした。若宮の母三位の局は、今を限りの別れと、さほど名残り惜しく思ったことでしょう。かといってどうすることもできないので、泣く泣く着物を着せて、髪をかき撫で、出させましたが、ただ夢のように思われました。暲子内親王を始め、三位の局の女房、女の童([召し使い])にいたるまで、涙を流し袖を濡らさない者はいませんでした。
(続く)