宇治の左大臣殿これを賜はり継いで、頼政に賜ばんとて、御前の階を中らばかり下りさせ給ふ折節、頃は卯月十日あまりのことなれば、雲居に郭公二声三声音連れて通りければ、左大臣殿、
ほととぎす 名をも雲居に あぐるかな
と
仰せられかけたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖を広げて、月を少し
側目にかけつつ、
弓張り月の 入るにまかせて
と仕り、
御剣を賜はりて罷り出づ。この頼政の
卿は武芸にも限らず、
歌道にもまた優れたりとぞ、時の人々感じ合はれける。さてかの
変化の物をば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。また
応保の頃ほひ、二
条の
院御在
位の御時、
鵺と言ふ
化鳥、
禁中に鳴いて、しばしば
宸襟を悩まし奉ることありけり。
宇治左大臣殿(藤原頼長)が賜わり継いで、頼政(源頼政)に与えようと、御前の階段を途中まで下りた時に、頃は卯月(陰暦四月)十日過ぎのことでしたので、禁中をほととぎすが二声三声鳴きながら飛んで行きました、頼長は、
ほととぎすが禁中で鳴くように、お主もすっかり名を上げたな。
と仰せられると、頼政は右の膝をついて、左の袖を広げて、月を少し横目で見て、
弓張り月(三日月のことですが十日過ぎのことなので、上弦の月ですね)が入る所を射たら、たまたま当たっただけです。
と詠んで、剣を賜って出て行きました。頼政卿は武芸だけに留まらず、歌道にも優れていると、時の者たちは思いました(頼政には、「源三位頼政集」という「家集」があります)。さて変化の物は、うつほ舟(木をくり抜いて作った舟らしい)に入れて流したということです。応保(二条天皇の御時(1161~1163))の頃、二条院が在位していた時に、鵺(トラツグミ)という化鳥が、禁中([内裏])で鳴いて、宸襟([天皇の心])を悩ませることがありました。
(続く)