これを橿原の宮と名付けたり。それよりこの方、代々の帝王、都を他国他所へ遷さるること、三十度に余り、四十度に及べり。神武天皇より景行天皇まで十ニ代は、大和の国郡々に都を建てて、他国へは終に遷されず。しかるを成務天皇元年に、近江の国に遷つて、志賀の郡に都を建つ。仲哀天皇二年に、長門の国に遷つて、豊浦の郡に都を建つ。その国かの都にして、帝隠れさせ給ひしかば、后神功皇后、御世を受け取らせ給ひ、女躰として、鬼界、高麗、契丹まで攻め従へさせ給ひけり。異国の戦を鎮めさせ給ひて、帰朝の後、筑前の国三笠の郡にして皇子御誕生、やがてその所をば、宇美の宮とぞ申しける。懸けまくも忝く八幡の御事これなり。位に就かせ給ひては、応神天皇とぞ申しける。その後神功皇后は、大和の国に遷つて、岩根稚桜の宮におはします。応神天皇は、同じき国軽島明の宮に住ませ給ふ。仁徳天皇元年に、津の国難波に遷つて、高津の宮におはします。履中天皇二年に、また大和の国に遷つて、十市の郡に都を建つ。反正天皇元年に、河内の国に遷つて、柴籬の宮に住ませ給ふ。允恭天皇四十二年に、また大和の国に遷つて、飛ぶ鳥の飛鳥の宮におはします。
これを橿原宮(畝傍橿原宮)と名付けました。それよりこれまで、代々の天皇が、都を他国他所に遷したのは、三十度を越え、四十度に及びました。神武天皇から景行天皇(第十ニ代天皇。B.C.13~と「古事記」、「日本書紀」に書かれているが、実際は四世紀前半らしい)までの十ニ代は、大和国の郡々に都を建て、他国へ遷すことはありませんでした。しかし成務天皇(第十三代天皇)が成務天皇元年に、近江国に遷って、志賀郡に都を建てました(志賀高穴穂宮。現在の滋賀県大津市)に都を建てました。仲哀天皇(第十四代天皇。実在したかは疑わしいらしい)は仲哀天皇二年に、長門国に遷って、豊浦郡に都を建てました(穴門豊浦宮。今の山口県下関市)。長門国の都で、仲哀天皇がお隠れになったので、后であった神功皇后(第十五代応神天皇の母)が、世を受け継いで、女帝として、鬼界([九州の南西海上の諸島の古名])、高麗([朝鮮])、契丹([モンゴル地方])まで攻めて平定しました。異国の戦いを鎮めて、帰朝の後、筑前国三笠郡で皇子(後の応神天皇)が誕生し、その場所は宇美宮(今の福岡県糟屋郡)と呼ばれました。申すも恐れ多いことながら、八幡(宇美八幡宮)のことです。皇子は帝位に就いて、応神天皇となりました。その後神功皇后は、大和国に遷って、岩根稚桜宮(今の奈良県桜井市)を都としました。応神天皇は、同じ大和国の軽島明宮(軽島豊明宮。今の奈良県橿原市か)を都としました。仁徳天皇(第十六代天皇)は仁徳天皇元年に、摂津国難波に遷って、高津宮(今の大阪市中央区)を都としました。履中天皇(第十七代天皇)は履中天皇二年に、また大和国に遷って、十市郡(今の奈良県橿原市)に都を建てました。反正天皇(第十八代天皇)は反正天皇元年に、河内国に遷って、柴籬宮(丹比柴籬宮。今の大阪市松原市あたりか)を都としました。允恭天皇(第十九代天皇)は允恭天皇四十>二年に、また都を大和国に遷して、飛鳥宮(今の奈良県高市郡)を都としました。
(続く)