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「増鏡」新島守(その25)

中の院は初めより知ろし召さぬ事なれば、あづまにも咎めまうさねど、父の院、遙かに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと畏れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多はたと言ふ所に渡らせ給ひぬ。去年こぞ二月きさらぎばかりにや、若宮出で来給へり。承明門院の御兄せうとに、通宗みちむねの宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の娘の御腹なり。やがて、かの宰相の弟に、通方みちかたと言ふ人の家に留め奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈げらふ一人、召し次ぎなどばかりぞ、御供仕りける。いと怪しき御手輿たごしにて下らせ給ふ。道すがら雪掻き暗し風吹き荒れ吹雪して、し方行く先も見えず、いと堪へ難きに、御袖もいたくこほりて、理なき事おほかるに、

うき世には かかれとてこそ 生まれけめ ことわり知らぬ 我涙かな

せめて近きほどにと、あづまより奏したりければ、後には阿波あはの国に移らせ給ひにき。




中院(第八十三代土御門院)はこのご謀反に最初から関わっておられなかったので、東国(鎌倉幕府)からも罪には問われませんでしたが、父である院(第八十二代後鳥羽院)が、遥か遠国に移られながら、安穏として都にあることを、とても畏れ多いことに思われて、自らのご意志で、その年の閏十月十日に、土佐国の幡多(現高知県西南部にあった庄)と申す所へ移られました。去年の二月ほどに、若宮(邦仁くにひと親王。後の第八十八代後嵯峨天皇)がお生まれになられておりました。承明門院(源在子ざいし)の義兄に、通宗宰相中将(源通宗)と申した、若くして亡くなられた方の娘(源通子つうし)の子でございました。やがて、宰相(源通宗)の弟で、通方(源通方)と申す方の家に養われて、近くに仕える北面の下臈([北面の武士]=[院の御所の北面に詰め、院中の警備にあたった武士])が一人、召し次ぎ([院の庁や東宮・摂関家などで、雑事を務め、時刻を奏した下級職員])などばかりが、仕えておりました。土御門院はとてもみすぼらしい手輿に乗られて下って行かれました。道中雪が降って空は掻き曇り風は激しく吹いて吹雪となって、来た道行く先もみえず、寒さは堪え難く、袖もひどく凍って、とてもつらく思われて、

憂き世でつらい目に遭うと知って生まれてきたわたしなのだ。なのにどうしてこれほどのことで涙を流さねばならぬ、分別を知らぬ我が涙よ。

せめて近国へ移されよと、東国(鎌倉幕府)より奏上がなされて、後には阿波国に移られました。


続く


by santalab | 2013-11-11 08:45 | 増鏡

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