燕丹なほ恨みを含んで、始皇帝に従はず。始皇官軍を遣はして、燕丹を亡ぼさんとす。燕丹大きに恐れ慄いて、荊軻と言ふ 強者を語らうて大臣になす。荊軻また田光先生と言ふ強者を語らふに、先生申しけるは、「君はこの身が若う盛んなつしことを知ろし召して、かくは頼み仰せらるるか。麒麟は千里を飛ぶと言へども、老いぬれば駑馬にも劣れり。この身は年老いて、いかにも叶ひ候ふまじ。詮ずるところ、よき強者を語らつてこそ参らせめ」と申しければ、荊軻、「あなかしこ、このこと披露すな」と言ふ。先生聞いて、「このこと漏れぬるものならば、我先づ先に疑はれなんず。人に疑はれぬるに過ぎたる恥こそなけれ」とて、荊軻が門前なる李の木に頭を突き当て、打ち砕いてぞ死ににける。
燕丹は恨みを持っていたので、始皇帝には従いませんでした。始皇帝は官軍を遣わして、燕丹を殺そうとしました。燕丹はたいそう恐れて、荊軻と言う強者を味方に付けて大臣としました。荊軻また田光先生と言う強者を仲間にしようとしましたが、先生が申すには、「あなたは我が身がまだ若く盛んであると思って、そのように頼まれるのでしょうか。麒麟は千里を飛ぶと言いますが、老いれば駑馬([足ののろい馬])にも劣るというものです。我が身は年老いて、使い物にならなでしょう。結局のところ、他の強者を味方に付けなさいませ」と申したので、荊軻は、「わかりました、このことを人に話さないでください」と言いました。先生はこれを聞いて、「もしこのことが漏れることがあれば、わたしが真っ先に疑われることでしょう。人に疑われるに過ぎた恥はありません」と言って、荊軻の門前にあった李の木に頭を打ち当てて、頭を打ち砕いで死んでしまいました。
(続く)