しかるにかの頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父左馬の頭義朝が謀反によつて、すでに誅せらるべかりしを、故池の禅尼のあながちに嘆きのたまふによつて、生年十四歳と申しし永暦元年三月二十日の日、伊豆の北条蛭が小島へ流されて、二十余年の春秋を送り向かふ。年来もあればこそありけめ、今年いかなる心にて、謀反をば起こされけるぞと言ふに、高雄の文覚上人の勧め申されけるによつてなり。そもそもこの文覚と申すは、渡辺の遠藤左近の将監茂遠が子に、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆なり。しかるを十九の年、道心起こし、髻切り、修行に出でんとしけるが、修行と言ふは、いかほどの大事やらん、試いて見んとて、六月の日のくさもゆるがずてつたるに、ある片山里の藪の中へ入ひり、はだかになり、仰のけに伏す。
頼朝(源頼朝)は、去る平治元年(1159)十二月に、父であった左馬頭義朝(源義朝)の謀反(平治の乱)によって、死罪となるはずでしたが、故池禅尼(清盛の父忠盛の正室)が何度も懇願したので、生年十四歳であった永暦元年(1160)三月二十日に、伊豆北条の蛭が小島(蛭ヶ島。今の静岡県伊豆の国市)に流罪となり、二十年余りの年月を送りました。数年間何もなかったのに、今年になってどのような気持ちで、謀反を起こしたのかと言うと、高雄(今の京都市右京区)の文覚上人が勧めたからなのでした。そもそも文覚と申す者は、渡辺党の遠藤左近将監茂遠(遠藤茂遠)の子で、遠藤武者盛遠と言って、上西門院(第七十四代鳥羽天皇の皇女統子内親王)の衆([所の衆]=[蔵人所に属して雑事をつとめた者])でした。しかし十九歳の年に、道心([仏道に帰依する心])を起こし、髻([髪])を切って、修行に出ようとしましたが、修行と言うのはどれほど大変なことなのか、試してみようと、六月の草も風になびかない陽の照った日に、ある片山里の藪の中に入って、はだかになり、仰向けに横になりました。
(続く)