その後門外へ引き出だいて、庁の僕に賜ぶ。賜はつて引つぱる。引つぱられて立ちながら、御所の方を睨まへ、大音声を上げて、「たとひ奉加をこそし給はざらめ、あまつさへ文覚にこれほどまで、辛き目を見せ給ひつれば、ただ今思ひ知らせ申さんずるものを。三界は皆火宅なり、王宮と言ふとも、いかでかその難をば遁るべき。たとひ十善の帝位に誇つたうと言ふとも、黄泉の旅に出でなん後は、牛頭馬頭の責めをば、免れ給はじものを」と、躍り上がり躍り上がりぞ申しける。「この法師奇怪なり。禁獄せよ」とて禁獄せらる。資行判官は烏帽子打ち落とされたる恥がましさにしばしは出仕もせざりけり。安藤武者は文覚組んだる献賞に、一臈を経ずして、当座に右馬の允にぞなされける。その頃美福門院隠れさせ給ひて、大赦ありしかば、文覚ほどなく赦されけり。しばらくはいづくにても行ふべかりしを、また勧進帳を奉げて、十方檀那を勧め歩きけるが、さらばただもなくして、「あはれこの世の中は、ただ今乱れて、君も臣も共に亡び失せんずるものを」など、かやうに恐ろしきことをのみ申し歩く間、「この法師都に置いては敵ふまじ。遠流せよ」とて、伊豆の国へぞ流されける。
その後文覚を院の門外へ引っ張り出して、庁([検非違使庁])の僕([下級の役人])に引渡しました。役人は文覚を引き立てました。文覚は引っ張られて立ちながらも、院御所の方を睨んで、大声を上げて、「奉加([神仏に金品を寄進すること])をしないどころか、わしをこれほどまでに、痛めつけたのだ、ただ今にも思い知らせてやるぞ。三界([過去・現在・未来])は皆火宅([煩悩や苦しみに満ちた世])じゃ、王宮と言えども、どうしてその苦難から逃れられようぞ。たとえ十善([十悪を犯さないこと])の帝位に誇ろうとも、黄泉([冥土])に旅立った後は、牛頭馬頭([頭が牛や馬で、体は人の形をした地獄の獄卒])の責めから、逃れられはしないぞ」と、飛び上がり飛び上がり申しました。「この法師はあまりにも非常識である。禁獄せよ」と言って禁獄の身となりました。資行判官(平資行)は烏帽子を打ち落とされた恥しさでしばらく出仕しませんでした。安藤武者(安藤右宗)は文覚を取り押さえた献賞([褒美])として、一臈([ 蔵人や北面の武士などの首席の者])を経ずに、たちまち右馬允となりました。その頃美福門院(藤原得子。後白河院の父である第七十四代鳥羽院の譲位後の妃で、第七十六代近衛天皇の生母)がお隠れになって、大赦が行われたので、文覚はしばらくして赦されました。しばらくはどこにでも修行するところを、また勧進帳([寄付を集めるのに使う帳面])を持って、十方([あらゆる所])を訪ねて檀那([布施をする者])を勧誘して歩きましたが、ただそれだけでなく、「ああこの世の中は、今は乱れて、君([天皇])も臣も共に亡び失われようとしておるぞ」などと、恐ろしいことばかり言って歩いていたので、「この法師を都に置いておいてはたまらない。遠流せよ」と、伊豆国(今の静岡県の伊豆半島と東京都の伊豆諸島)に配流しました。
(続く)