光能の卿、「いさとよ、我が身も当時は三官ともに止められて、心苦しき折節なり。法皇も押し籠められて渡らせ給へば、いかがあらんずらん。さりながらも伺うてこそみめ」とて、この由密かに奏聞せられたりければ、法皇rb>大きに御感あつて、やがて院宣をぞ下されける。文覚よろこんで首に掛け、また三日と言ふには、伊豆の国へ下り着く。兵衛の佐殿、聖の御房のなまじひなること申し出だして、頼朝またいかなる憂き目に遭はんずらんと、思はじ事なう、案じ続けておはしける。八日と言ふ午の刻に、下り着いて、「くは院宣よ」とて奉る。兵衛の佐殿、院宣と聞く忝さに、新しき烏帽子浄衣を着、手水うがひをして、院宣を三度拝して開かれけり。「頻りの年よりこの方、平氏王皇を蔑如して、政道に憚ることなし。仏法を破滅し、王法を乱らんとす。それ我が国は神国なり。宗廟相並んで、神徳これあらたなり。かるが故に朝廷開基の後、数千余歳の間、帝位を傾け、国家を危ぶめんとする者、皆もつて敗北せずと言ふことなし。しかればすなはちかつうは神道の冥助に任せ、かつうは勅宣の旨趣を守つて、早く平氏の一類を滅ぼして、朝家の怨敵を退けよ。譜代相伝の兵略を継ぎ、塁祖奉公の忠勤を抜きん出て、身を立て家を起こすべし。ていれば院宣かくの如く、よつて執達件の如し。治承四年七月十四日、前の右兵衛の督光能が承つて、謹上、前の兵衛の佐殿へ」とぞ書かれたる。この院宣をば錦の袋に入れて、石橋山の合戦の時も、兵衛の佐殿の首に掛けられけるとぞ聞こえし。
光能卿(藤原光能)は、「それはどうだろうか、わしも当時は三官(当時光能は右兵衛督兼参議だったらしい)ともに止められて、心苦しい頃であった。法皇(後白河院)も蟄居の身で福原(今の兵庫県神戸市兵庫区)に遷られた、どうされるのかはわからない。とは言えお耳に入れようではないか」と言って、これを密かに奏聞すると、法皇はたいそう感心されて、すぐに院宣を下しました。文覚はよろこんで院宣を首から掛け、また三日目に、伊豆国(今の静岡県伊豆半島および東京都伊豆諸島)に着きました。兵衛佐殿(源頼朝)は、聖([高僧])の御房(文覚)が無茶な事を言い出して、頼朝がまたどんな憂き目に遭うことだろうかと、思案しては、思い煩っていました。文覚が伊豆を立ってから八日目の午刻([正午])に、伊豆に着いて、頼朝に「これが院宣です」と言って手渡しました。兵衛佐殿は、院宣と聞くと恐れ多くて、新しい烏帽子浄衣([神事・祭祀などに着用する衣])を着て、手を洗いうがいして、院宣を三度拝してから開きました。「頻りの年([ここ数年])は、平氏が王皇([皇室])を蔑如([軽んじること])して、政道([政治])に口出ししないことはない。仏法を破滅し、王法([政治])を乱すばかりである。我が国は神国である。宗廟(伊勢神宮と石清水八幡宮)は相並び、神徳([神の威徳])あらたかである。それ故に朝廷開基の後、数千年の間、帝位を転覆し、国家を滅ぼそうとする者は、皆敗れなかったことはない。ならば一方では神道の冥助([神仏の目に見えない助け])をもって、また勅宣の旨趣([趣旨])に従って、早く平氏一類([一族])を滅ぼして、朝家の怨敵を退散させよ。譜代相伝([代々その家に受け継ぎ伝えること])の兵略を用い、塁祖([先祖代々])朝家に奉公してきた通り忠勤に一層励み、身を立て源氏を復興させよ。院宣は以上の通りである、よってそのまま執達([上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること])する。治承四年(1180)七月十四日、前右兵衛督光能が法皇(後白河院)より承り、謹上([つつしんで奉ること])する、前兵衛佐殿(源頼朝)へ」と書いてありました。頼朝はこの院宣を錦袋に入れて、石橋山の合戦(頼朝と大庭景親=平氏方との間で行われた合戦。石橋山は今の神奈川県小田原市にある山)の時も、首に掛けていたと言われました。
(続く)