平家の方には、静まり返つて音もせず。人を入れて見せければ、「皆落ちて候ふ」と申す。あるひは敵の忘れたる鎧取つて参る者もあり、あるひは平家の捨て置いたる大幕取つて帰る者もあり。「およそ平家の陣には、蝿だにも駆けり候はず」と申す。兵衛の佐、急ぎ馬より下り、兜を脱ぎ、手水うがひをして、王城の方を伏し拝み、「これはまつたく頼朝がわたくしの高名にはあらず、ひとへに八幡大菩薩の御計らひなり」とぞのたまひける。やがて、討つ取るところなればとて、駿河の国をば、一条の次郎忠頼、遠江の国をば、安田の三郎義定に預けらる。なほも続いて攻むべかりしかども、後ろもさすがおぼつかなしとて、駿河の国より鎌倉へぞ帰られける。海道宿々の遊君遊女ども、「あな忌々しの討つ手の大将軍や。戦には見逃げをだに浅ましきことにするに、 平家の人々は聞き逃げし給へり」とぞ笑ひける。さるほどに落書ども多かりけり。都の大将軍をば宗盛と言ひ、討つ手の大将をば、権の亮と言ふ間、平家をひらやに読みなして、
ひらやなる 宗盛いかに 騒ぐらむ 柱と頼む 亮を落として
富士川の 瀬瀬の岩越す 水よりも はやくも落つる 伊勢平氏かな
平家の方は、静まり返って音もしませんでした。人を遣って見にいかせると、「皆逃げております」と申しました。ある者は敵(平氏)の忘れ置いた鎧を取って返り、ある者は平家が捨て置いた大幕([陣営を覆うための幕])を取って帰る者もありました。「平家の陣には、蝿さえも飛んでおりません」と申しました。兵衛佐(源頼朝)は、急ぎ馬から下りて、兜を脱ぎ、手水うがいをして、王城(京)の方に伏して拝み、「これはまったくもってわたし頼朝の高名([手柄])ではなく、ひとえに八幡大菩薩(今の京都府八幡市の石清水八幡の本地菩薩)のお計らいである」と言いました。すぐに、討ち取った場所である、駿河国(今の静岡県の中央部)を、一条次郎忠頼(一条忠頼)、遠江国(今の静岡県西部)を、安田三郎義定(安田義定)の知行としました。なおも続いて攻めるべきでしたが、後方もさすが不安だと、頼朝は駿河国より鎌倉に帰りました。東海道の宿々の遊君([遊女])遊女たちは、「なんと情けない討手の大将軍か。戦を見逃げするのも恥しいことなのに、平家の者たちは聞き逃げするとは」と言って笑いました。やがて落書が多く書かれました。都の大将軍を宗盛(平宗盛。清盛の三男)と言い、討手の大将を権亮(平維盛。重盛の嫡男)と言ったので、平家をひらやと読んで、
平家の、宗盛はどれほど、驚き騒いだことだろう。柱と頼りにした。亮が逃げてしまったのだから。
富士川の、瀬の岩を越す、水よりも、あっと言う間に落ちる、伊勢平氏どもよ。
(続く)