夜戦になつて、大将軍頭の中将重衡、般若寺の門の前にうつ立つて、暗さは暗し、「火を出だせ」とのたまへば、播磨の国の住人、福井の庄の下司、次郎大夫友方と言ふ者、楯を割り松明にして、在家に火をぞかけたりける。頃は十二月二十八日の夜の、戌の刻ばかりのことなれば、折節風は激し、火元は一つなりけれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。およそ恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良阪にて討ち死にし、般若寺にして討たれにけり。
夜戦になって、大将軍である頭中将重衡(平重衡。清盛の五男)は、般若寺(奈良県奈良市にある寺)の門の前に立って、あたりはすっかり暗く、「火を点けよ」と言うと、播磨国の住人である、福井庄(今の兵庫県姫路市南西部あたりらしい)の下司([身分の低い役人])、次郎大夫友方と言うものが、楯を割り松明にして、在家に火をつけました。頃は十二月二十八日の夜の、戌の刻([午後八時頃])のことでしたので、風は激しく、火元は一つでしたが、吹きまくる風によって、多くの伽藍([大寺院])に火を吹きかけました。負け戦の恥を思い、名誉を惜しむほどの者たちは、皆奈良阪([奈良市の北から京都府木津川市木津に出る坂道])で討ち死に、もしくは般若寺(奈良市般若寺町にある寺院)で討たれました。
(続く)