法相擁護の春日大明神、いかなることをか思しけん、されば春日の野露も色変はり、三笠山の嵐の音も怨むる様にぞ聞こえける。炎の中にて焼け死ぬる人数を数へたれば、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、ある御堂には三百余人、具に記いたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討たるる大衆千余人、少々は般若寺の門に斬り懸けさせ、少々は首ども持つて都へ上られけり。明くる二十九日、頭の中将重衡、南都滅して北京へ帰り入らる。およそは入道相国ばかりこそ、憤り晴れて喜ばれけれ。中宮、一院、上皇は、「たとひ悪僧をこそ亡ぼさめ、多くの伽藍を破滅すべきやは」とぞ御嘆きありける。日頃は衆徒の首大路を渡いて、獄門の木に懸けらるべしと、公卿詮議ありしかども、東大寺興福寺の滅びぬる浅ましさに、何の沙汰にも及ばず。ここやかしこの溝や堀にぞ捨て置きける。聖武皇帝の宸筆の御記文にも、「我が寺興福せば、天下も興福すべし。我が寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる。されば天下の衰微せんこと、疑ひなしとぞ見えたりける。浅ましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。
法相(法相宗)を擁護([衆生の祈願に応じて、仏や菩薩が守り助けること])する春日大明神(春日大社の祭神)も、どのように思われたことでしょうか、春日([奈良市およびその付近])の野露も悲しみの色に変わり、三笠山(若草山)の嵐の音も怨むように聞こえました。炎の中で焼け死んだ人数を数えれば、大仏殿(東大寺大仏殿)の二階の上には一千七百人余り、山階寺(興福寺)には八百人余り、ある御堂には五百人余り、ある御堂には三百人余り、一々に記せば、三千五百人余りにもなりました。戦場で討たれた大衆([僧])は千人余り、少々は般若寺(奈良市にある寺)の門に懸けて、少々は首を持って都に上りました。明けた二十九日に、頭中将重衡(平重衡。清盛の五男)が、南都(奈良)を滅ぼして北京(京)に戻りました。入道相国(平清盛)ばかりが、憤りが晴れて喜びました。中宮(第八十代高倉天皇中宮、平徳子。清盛の娘)、一院(後白河院)、上皇(高倉院)は、「たとえ悪僧([武勇に秀でた荒々しい僧])を亡ぼすにせよ、多くの伽藍([大寺院])を破滅すべきことがありましょうか」と嘆きました。日頃は衆徒の首を大路を渡し、獄門の木に懸けるべしと詮議がありましたが、東大寺興福寺が滅びた嘆かわしさに、今回は何の沙汰([裁定])もありませんでした。ここそこの溝や堀に捨て置かれました。聖武皇帝(第四十五代聖武天皇)が宸筆([天子の直筆])された御記文にも、「我が寺が興福すれば、天下も栄える。我が寺が衰微すれば、天下も衰える」と書かれてありました。ならば天下が衰えるのも、疑いないことと思われました。嘆かわしい年も暮れて、治承五年(1181)になりました。
(続く)