およそは最期の所労の有様どもこそ、うたてけれども、まことには、只人とも思えぬことども多かりけり。日吉の社へ参り給ひしにも、当家他家の公卿多く供奉して、「摂録の臣の春日の御参詣、宇治入りなど申すとも、これにはいかでか優るべき」とぞ人申しける。何よりもまた福原の経の島築いて、上下往来の船の、今の世にいたるまで、煩ひなきこそめでたけれ。かの島は、去んぬる応保元年二月上旬に、築き始められたりけるが、同じき八月二日の日、にはかに大風吹き大波立つて、皆揺り失ひてき。同じき三年三月下旬に、阿波の民部成良を奉行にて就かれけるに、人柱立てらるべきなんど、公卿詮議ありしかども、それは中々罪業なるべしとて、石の面に一切経を書いて、築かれたりける故にこそ、経の島とは名付けけれ。
清盛の最期の所労([病気])の有様は、嘆かわしいものでしたが、実に、只人とは思えないことも多くありました。日吉社(今の滋賀県大津市にある日吉大社)への参詣にも、当家(平家)他家の公卿を多く供奉([行幸や祭礼などのときにお供の行列に加わること])させて、「摂録([摂政、関白])の臣(藤原氏)の春日(奈良市にある春日大社。藤原氏の氏神)の参詣、宇治入り(京都府宇治市にある宇治平等院。藤原氏所縁の寺院)と申せど、平家の日吉参詣にはどうして優るものでない」と人は申しました。何よりも福原(今の兵庫県神戸市兵庫区)に経の島を築いて、上下を往来する船が、今の世にいたるまで、難波しなかったことは喜ぶべきことでした。経の島は、去る応保元年(1161。応保元年に二月はなく正しくは、永暦二年)二月上旬に、築き始められましたが、同じ八月二日に、急に大風が吹き大波が立って、皆流されてしまいました。同じ応保三年(1163)三月下旬に阿波民部成良(田口成良)を奉行([執行役])に就けて、人柱を建てるべきと、公卿詮議がありましたが、それはたいそう罪深いことだと、石の面に一切経([大蔵経]=[仏教の聖典を総集したもの])を書いて、島を築いたので、経の島(大輪田泊。かつて兵庫県神戸市兵庫区にあった港)と名付けられました。
(続く)