さるほどに木曽義仲は、東山北陸両道をうち従へて、すでに都へ乱れ入る由聞こえけり。平家は去年の冬の頃より、「明年は馬の草飼ひについて、戦あるべし」と披露せられたりければ、山陰山陽、南海西海の兵ども、雲霞の如くに馳せ集まる。東山道は近江、美濃、飛騨の兵は参りたれども、東海道は遠江より東の兵は一人も参らず、西は皆参りたり。北陸道は若狭より北の兵は一人も参らず。平家の人々、先づ木曽義仲を討つて後、兵衛佐頼朝を討つべき由の公卿詮議ありて、北国へ討手を差し向けらる。大将軍には、小松の三位の中将維盛、越前の三位通盛、副将軍には、薩摩の守忠度、皇后宮の亮経正、淡路の守かみ清房きよふさ、三河みかはの守かみ知度とものり、侍さぶらひ大将だいしやうには、越中ゑつちうの次郎じらう兵衛びやうゑ盛嗣もりつぎ、上総かづさの大夫たいふの判官はうぐわん忠綱ただつな、飛騨ひだの大夫たいふの判官はうぐわん景隆かげたか、河内かはちの判官はうぐわん秀国ひでくに、高橋たかはしの判官はうぐわん長綱ながつな、武蔵むさしの三郎さぶらう左衛門ざゑもん有国ありくにを先として、以上いじやう大将軍六人、しかるべき侍さぶらひ三百四十さんびやくしじふ余人、都合つがふその勢十じふ万余騎、四月しんぐわつ十七じふしち日の辰たつの一点いつてんに都を立つて、北国へこそ赴おもむかれけれ。片道を賜はつてげれば、逢坂あふさかの関より始めて、路次ろしにもつて遭ふ権門勢家けんもんせいけの正税しやうぜい官物くわんもつをも恐れず、いちいちに皆奪ひ取る。志賀、唐崎、三河尻みつかはじり、真野まの、高島、塩津しほつ、貝津かひづの道のほとりを、次第に追補つゐふくして通とほりければ、人民にんみん堪こらへずして、山野に皆逃散でうさんす。
やがて木曽義仲(源義仲、頼朝の従兄弟)が、東山道(陸奥、下野しもつけ、上野かうづけ、信濃、美濃、近江を通る)北陸道(佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、若狭を通る)両道から兵を従えて、すでに都へ乱れ入ったという話が聞こえてきました。平家は去年の冬頃より、「来年には馬に与える草が大量に必要となるであろう、戦があるに違いない」と広く人に知らせておいたので、山陰(隠岐、石見、出雲、伯耆はうき、因幡、但馬、丹後、丹波を通る)山陽(長門、周防、安芸、備後、備中、備前、美作、播磨を通る)、南海(土佐、伊予、讃岐、阿波、淡路、紀伊を通る)西海(対馬、壱岐、薩摩、大隅、日向、肥後、肥前、豊後、豊前、筑後、筑前を通る)から兵たちが、雲霞の如く大勢急ぎ集まりました。東山道は近江(今の滋賀県)、美濃(今の岐阜県南部)、飛騨(今の岐阜県北部)の兵はやって来ましたが、東海道からは、遠江(今の静岡県、大井川の西部)より東方の兵は一人も集まらず、西方からは皆やって来ました。北陸道からは、若狭(今の福井県南部)より北の兵は一人もやって来ませんでした。平家の者たちは、先ず木曽義仲を討ってから、兵衛佐頼朝(源頼朝、鎌倉幕府の初代征夷大将軍)を討つべきとの決議があったので、北国に軍勢を差し向けました。大将軍(総指揮)には、小松三位中将維盛(平維盛、清盛の嫡孫)、越前三位通盛(平通盛、清盛の異母弟教盛のりもりの嫡男)、副将軍には、薩摩守忠度(平忠度、清盛の異母弟)、皇后宮亮経正(平経正、清盛の異母弟経盛つねもりの長男、[皇后宮亮]=[皇后宮職の長官])、淡路守清房(平清房、清盛の八男)、三河守知教(平知度、清盛の七男)、侍大将(軍大将)には、越中次郎兵衛盛嗣(平盛嗣)、上総大夫判官忠綱(平忠綱)、飛騨大夫判官景隆(平景隆)、河内判官秀国(平秀国)、高橋判官長綱(平長綱)、武蔵三郎左衛門有国(平有国)を先鋒として、以上大将軍六人、侍(上級武士)三百四十人余り、合計その勢は十万騎余り、四月十七日の辰一点(午前八時頃)に都を立って、北国へ向かいました。片道の徴収権を賜ったので、逢坂の関(今の滋賀県大津市あたりらしい)からは、道の途中にあった権力者の勢力のある家の正税官物(今の国税ですかね)も関係なく、すべて奪い取りました。志賀(今の滋賀県大津市あたり)、唐崎(今の滋賀県大津市北西部)、三河尻(不明)、真野(今の滋賀県大津市)、高島(今の滋賀県高島市)、塩津(今の滋賀県長浜市)、貝津(今の滋賀県高島市マキノ町海津)の道すがら、兵糧を奪い取りながら通っていったので、人民は耐えることができなくて、山野に皆逃げてしまいました。
(続く)