さても、この度世の有様、げにいとうたて口惜しきわざなり。あるは、父の王を失ふ例だに、一万八千人までありけりとこそ、仏も説き給ひ溜めれ。増して、世下りて後、唐土にも日の本にも、国を争ひて戦ひをなす事、数へ尽くすべからず。それも皆、一節二節の寄せはありけむ。もしは、筋異なる大臣、さらでも、公ともなるべき刻みの、少しの違ひめに、世に隔たりて、その怨みの末などより、事起こるなりけり。今のやうに、無下の民と争ひて、君の亡び給へる例、この国には、いと数多も聞こえざんめり。されば、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、いづれも皆猛かりけれど、宣旨には勝たざりき。保元に崇徳院の世を乱り給ひしだに、故院の、御位にてうち勝ち給ひしかば、天照大神も、御裳濯川の同じ流れと申しながら、
なほ、時の御門を守り給はする事は、強きなんめりとぞ、古き人々も聞こえし。
それにいたしましても、この度の世の有様は、情けなくも残念なことでございました。申すならば、父である王を失った例さえ、一万八千人もあったと、仏(釈迦)も申し残されました。まして、時代が下った後は、唐土(中国)でも日本でも、国を争って戦いをなすこと、とても数え尽くせるものではございません。それも皆一つや二つの寄せ([訳])があってのことでございます。もしくは、家柄の異なる大臣、そうでなくとも、公([天皇])が変わられる折に、わずかの食い違いから、世を厭い、その怨みの結果、争いも起こるのでございます。この時代のように、無下([はなはだしく身分の低いこと])の民と争い、君が亡びたれいは、あまりにも多いと聞いております。ですから、承平の将門(平将門)、天慶の純友(藤原純友)、康和の義親(源義親)、いずれも猛き者ではございましたが、宣旨(天皇)に勝つことはございませんでした。保元に崇徳院(第七十五代天皇)が世を乱された時でさえ、故院(第七十七代後白河天皇)が、位にあって争いに勝たれたのも、天照大神の、御裳濯川([伊勢神宮の内宮神域内を流れる五十鈴川の異称])の同じ流れでは、ございますれど、やはり、時の帝を守ろうとするお力は、強いものであられると、昔の人々も申されておられたのでしょう。
(続く)