かの城郭に籠つたる平泉寺の長吏斎明威儀師、平家に心ざし深かりければ、山の根を廻り、消息を書き、引目に入れ、平氏の陣へぞ射入れたる。兵どもこれを取つて、大将軍の御前に参り、開いて見るに、 「この川と申すは、往古の淵にあらず。一旦山川を堰き止め、水を濁して人の心をたぶらかす。夜に入つて足軽どもを遣はして、柵を切り落とさせられなば、水はほどなく落つべし。急ぎ渡させ給へ。ここは馬の足立よきところにて候ふ。後ろ矢をば仕らん。かう申す者は、平泉寺の長吏斎明威儀師が申し状」とぞ書いたりける。平家斜めならずによろこび、夜に入り、足軽どもを遣はして、柵を切り落とさせられたりければ、まことの山川ではあり、水はほどなく落ちにけり。平家しばしの遅々にも及ばず、ざつと渡す。城の内にも六千余騎、防ぎ戦ふと言へども、多勢に無勢、敵ふべしとも見えざりけり。平泉寺の長吏斎明威儀師は、平家に付いて忠をいたす。富樫の入道仏誓、稲津の新介、斎藤太、林の六郎光明、敵はじとや思ひけん、加賀の国へ引き退き、白山河内に陣を取る。平家やがて加賀の国にうち越え、富樫、林が城郭二箇所焼き払ふ。何面を向かふべしとも見えざりけり。国々宿々より飛脚をもつて、この由都へ申したりければ、大臣を始め奉りて、一門の人々勇みよろこび合はれけり。
とりでに籠っていた平泉寺([今の福井県勝山市にあった寺])の長吏([寺の長官])斎明威儀師([僧職の一。法会や授戒が厳粛に行われるように指図する僧])は、平家と親しい間柄でしたので、山の裾を廻って、消息([用件])を書き、引目([鏑矢])に入れ、平家の陣に向けて射ました。兵がこれを取って大将軍(清盛の嫡孫、重盛の嫡男、平維盛か?)の御前に届けたので、開いて見ると、「この山の川は、往古([大昔])からの淵ではありません。山川を堰き止めて、水を溜めて人を騙しているのです。夜になってから足軽たちを遣わして、柵([水流をせき止めるために、川の中に立てた杭])を切り落とせば、水はすぐに引くことでしょう。急いで渡りなさいませ。馬も通れることでしょう。後ろ矢([裏切り])して平家に付きます。こう申すのは、平泉寺の長吏斎明威儀師でございます」と書いてありました。平家はとても喜んで、夜になってから、足軽たちを遣って、柵を切り落とすと、元の山川に水が流れて、人工池の水はすっかり引きました。平家は少しも遅れることなく、ざっと渡りました。城の内では六千騎余りが、防ぎ戦いましたが、多勢に無勢、敵うとも思えませんでした。平泉寺の長吏斎明威儀師は、平家の味方となって忠義をなしました。富樫入道仏誓(富樫仏誓)、稲津新介、斎藤太、林六郎光明(林光明)は、敵わないと思って、加賀国に引き退いて、白山河内(今の石川県白山市河内町)に陣を構えました。平家はすぐに加賀国に入って、富樫、林の城郭二箇所を焼き払いました。どうすることもできませんでした。国々宿々より飛脚で、平家が勝ったことを都に知らせると、大臣殿(平宗盛。清盛の三男)をはじめ、平家一門の者たちは気勢を上げて喜び合いました。
(続く)