判官の気色を見奉て、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤四郎兵衛忠信、江田の源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶など言ふ、一人当千の兵ども、梶原を中に取り籠めて、我討つ捕らんとぞ進みける。されども判官には、三浦の介取り付き奉り、梶原には、土肥の次郎掴み付いて、両人手を摺つて申しけるは、「これほどの御大事を前に抱へながら、同士戦し給ひなば、平家に勢付き候ひなんず。かつうは鎌倉殿の返り聞こし召されんずるところも、穏便ならず」と申しければ、判官鎮まり給ひぬ。梶原進むに及ばず。それよりして、梶原判官を憎み染め奉て、讒言して終に失ひ奉たりとぞ、後には聞こえし。
判官(源義経)の顔色を見て、伊勢三郎義盛(伊勢義盛)、奥州の佐藤四郎兵衛忠信(佐藤忠信)、江田源三、熊井太郎(熊井忠基)、武蔵坊弁慶と言う、一人当千([千人力])の兵が、梶原(景時)を中に取り籠めて、討ち取ろうと前に出ました。けれども判官(義経)には、三浦介(三浦義澄)が取り付き、梶原(景時)には、土肥次郎(実平)が掴み付いて、両人が手を合わせて申すには、「これほどの大戦を目の前にして、同士戦すれば、平家に勢いが付きます。また鎌倉殿(源頼朝)が聞かれたなら、ただでは済みません」と申すと、判官(義経)は怒りを鎮めました。梶原(景時)もこれ以上口を出すことはできませんでした。それより、梶原(景時)は判官(義経)を憎んで、頼朝に讒言([事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと])を申して終に義経を亡ぼしたのだと、後には言われました。
(続く)