大将三位入道頼政父子、命を軽んじ義を重んじて、一戦の功を励ますと言へども、多勢の攻めを免れず。形骸を古岸の苔に晒し、生命を長河の波に流す。令旨の趣き肝に銘じ、同類の悲しみ魂を消す。これによつて東国北国の源氏ら、各々参洛を企てて、平家を滅ぼさんと発つす。義仲去んじ年の秋、宿意を達せんがために、旗を上げ剣を取つて、信州を出でし日、越後の国の住人、城の四郎長茂、数万の軍兵を率して発向せしむる間、当国横田河原にして合戦す。義仲わづかに三千余騎をもつて、かの数万の兵を破り終はんぬ。風聞広きに及んで、平氏の大将十万の軍士を率して、北陸には遣うす。越州、加州、砺波、黒坂、志保坂、篠原以下の城郭にして、数箇度合戦す。謀を帷幄の内に廻らして、勝つことを咫尺のもとに得たり。しかるに討てばかならず伏し、攻むれば必ず下る。
大将三位入道頼政(源頼政)父子は、命を軽んじ義理を重んじて、一戦の功を上げようとしましたが、平家の多勢の攻めから逃れることはできませんでした。形骸([骸])を古岸の苔の上に晒し、命を長河(宇治川)に流しました。わたし義仲(木曽義仲)は以仁王の令旨([皇太子・三后・親王・法親王・女院の命令を書き記した文書 ])の趣旨を肝に銘じ、同類(源氏)を悲しみ残念に思いました。これによって東国北国の源氏たちは、それぞれ参洛([京に上ること])を計画し、平家を滅ぼそうと兵を上げたのです。わたし義仲が去年の秋、宿意([かねてから抱いている恨み])を遂げようと、旗を上げ剣を持ち、信州を出た日、越後国の住人、城四郎長茂(城長茂)が、数万の軍兵を引き連れて向かって来たので、当国横田河原(今の長野県長野市横田)で合戦となりました。わたし義仲はわずか三千騎余りで、平家数万の兵を破りました。風聞([世間のうわさ])は広まり、平家の大将は十万の軍士([兵士])を引き連れて、北陸に攻めて来ました。越州(越前・越中・越後。今の福井県・富山県・新潟県)、加州(加賀国。今の石川県南部)、砺波(砺波山。今の富山県西部)、黒坂(富山県側から倶利伽羅峠に至る道)、志保坂(志保山。今の石川県羽咋郡)、篠原(今の石川県加賀市)の山城で、数度合戦をしました。謀略を帷幄([本陣])の中で立てたので、たちまちにして勝つことができたのです。わたしが討って出れば平家は必ず倒れ、わたしが攻めれば平家は西国に逃げて行くでしょう。
(続く)